「話してくれてありがとう」に湧き上がる強烈な違和感

  誰かにつらい思いを打ち明けられたとき、相手に「『話してくれてありがとう』と伝えましょう」などという "アドバイス" を目にすることが増えた。
 「はあ?」と思う。むかむかする違和感。「ありがとう」が正しい教えのようになってしまって異論が聞こえてこないことにも、強烈な違和感と苛立ち。話し手は、経験そのものにも、簡単には打ち明けられずに一人抱えてきたことにも、苦しんできたはずだ。感謝されたいわけじゃないだろう。たとえば病気して病院に行った時に「来院ありがとうございます」って言われたいか?
 断っておくが「ありがとう」が絶対にダメと言いたいわけではない。話しにくいことを話す相手として自分を選んでくれた、そのことを率直に有難く感じ、その思いを素直に伝えることが、相手の心に届く場面もあるだろう。でもそれはかなり稀なケースだろうと想像する。
 そもそも「こういう相談を受けた時にはこういう言葉をかけましょう」という前提がおかしい。人を馬鹿にしている。そんなアルゴリズムで人の心が救われるならコンピューターにでもやらせればいいだろう。臨床心理士だとか公認心理士だとか精神科医だとかなんとかカウンセラーだとか、心の支援を専門にするはずの人間がこんな有害なことを率先して吹聴しているのだから、手に負えない。
 どんな言葉をかけていいかわからないのなら、わからなさから逃げ出さずに、そばにいる。そして「あの時どう言えばよかったのだろう」と考え続ける。それくらいしかできないし、それこそがすべきことなのではないか。それはとても難しいことだ。
 私には臨床心理士の友人知人がいるが、彼らはその難しさを熟知しているし、「生涯修行だ」と研鑽を続けている。彼らは「こんな時にはこう言いましょう」などと決して言わない。友人からつらさを打ち明けられて、仮にそれを有難いと思ったとしても、ただ黙って、話に耳を傾けるだろう。

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