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六文銭〜無口な父と不甲斐ない息子〜

父と話をほとんどしなくなってどれくらい経つだろうか。思い出せないくらい会話をしていなかった。
小学生の頃は父の髪の薄さが嫌で嫌で
ハゲと呼んだりしていた。さすがにそれはいつまでも続くことはなかった。
父は元々、無口でよほどの用がないと自分から発言することはなく
こちらかの声かけにも「うん」「いい(否定の意)」ぐらいしか話すこともない。
母ともそんな感じだが、気に食わないことがあると怒っていつもより喋る。
別に父が嫌いとかそういうのでもなく
仕事終わり、食卓は家族三人で囲むので時間が合うと顔は合わせるが、そんな感じなので喋ることはほとんどない。食事が終わるとそれぞれの部屋に戻る。

そんな生活がただただずっと続くつもりだった。勝手にそう思っていた。
2023年春頃に肺炎の疑いありとの事で
入院することなった。

仕事中にLINEが入る。
母から父が癌の疑いありとの事。
検査結果出るまで入院しといて欲しいのだが
帰りたいときかないらしい。

その日の夜、そろそろ寝ようかとしていたら母の力ない声が聞こえる。
部屋に行くとトイレに行きたいけどめまいが強くて歩けないから連れて行って欲しいとの事。
職業柄そういった介助には慣れているのでトイレに連れていく、薬を飲んで様子を見るという母だが、あまりにきつそうなので
救急車を呼ぼうかと声かけるも「大丈夫」
#7199にかけ救急車を呼ぶべきか聞くと呼んだ方がいいとの事で119番する。
とりあえず検査入院となり病院の夜間出入り口を出たのが1時。
先んじて、職場には父も入院してて母が救急搬送なので明日は休ませて欲しいと伝えて了解を得ていた。

病院を出た時にある事に気づく。
電話しかもってない。財布も家だ。
夜中の1時、45分ほど歩いて帰宅。

翌日、母からLINE。父の病院にいって
洗濯物を持って帰るのとテレビカードを買う金を渡してきてとの事。
病院へ行くと主治医の先生より
説明したいとの事。
胃カメラの画像。ポリープの画像を数カ所。
その中で一際、赤黒い大きなものを指し先生が「これがおそらく癌と思われます」
素人のボクが見ても明らかに他のものとは違う。癌だろうなと思った。そして大きい。
ヤバいなと思った。
先生より検査結果でるまで入院勧めてくださいと言われ面会。
歩行器で現れた父はボクが記憶していた父よりかなりやつれていた。
「今、母ちゃんも入院してて父ちゃんが無理言って退院してきてもボクが仕事に行ってる間の父ちゃんの食事の準備とか出来ないからとりあえず検査結果でるまで入院しといてよ」
「うん、すまん、わかった」
父の声。
久しぶりにまともな会話。
さらに一言二言やりとりする。
15分ほどの面会終わり母にLINEする。
母の病院に行った方がいいか聞くと
今は頼む事はないから大丈夫との事。

数日後、父は退院。ボクが友人に車を借りて迎えに行った。
大きな病院への紹介状をもらい3日後に
行く事になる。

タクシーに乗って大きな病院へ、両親と向かう。
小一時間待って先生と対面。
ステージ3の胃癌です。
さらっとした告知。
淡々と説明をつづける先生。
ステージ3までは手術対応できるので
胃を切除する手術する必要があるとの事。
癌の腫瘍部が胃の上の方なので
3分の2を切除しないといけないらしい。
父は切ることを決断。
手術は1週間後。

手術の結果、胃の近くのリンパにも腫瘍があったため一緒に切除し、退院。
退院後はいままでとさほど変わらない生活が続いた。
時が流れ9月。再度検査を行い問題は見つからず。これで、父も母もボクも安心しきってしまっていた。
11月下旬に痛みを訴える。週末であったため、週が明けるのを待って母と父が二人で病院へ。
肝臓に癌が見つかる。
かなり悪い状態。
先生は抗がん剤治療を勧めたらしいが
父は拒否した。
「家で死にたい」
これが父の希望だった。
毎日の訪問看護による
在宅ホスピス。
介護ベッドが部屋に搬入。
胃を切除したことにより食欲は低下
ほとんど食べない。ゼリーとかプリンとか
そういったものは食べる。
12月入ってすぐは
普通に歩いて自分でトイレいったりしており
母ともまだしばらくは大丈夫だろうね、年明けて、6月の誕生日は迎えられるかな等話していた。
しかし、13日にトイレに行った時に
トイレから戻る時に歩けなくなって、そこから自力で立ち上がることがなくなった。
顔を見に行ってもきつそうな顔や
眠ってる姿。
会話もまともにできる状況が少なくなった。
痛みがつよくなり、モルヒネが開始され
眠ることが多くなる。

12月25日。
仕事開始して2時間ほど経った時に母からのLINE。先生が来て、もう長くない可能性があるからと息子さんにも連絡してと言われたから連絡したとの事だった。
会社に報告し早退する。
父の元へ行くと眠っている。
そもそも、24日から昏睡状態で目を覚ましていない。
そして25日の23時ごろ。
母がボクの部屋に来た。
「多分息がない」
「わかった」
父の元へ向かう。
確かに息がなかった。
訪看へ連絡。
1時間後先生もやってきて死亡確認。
そこからは目まぐるしく
時間が進み
斎場で通夜、兄貴家族が帰った後は父、母とボクで斎場に泊まる。
母はしなくてもいいと言ったが
結局ボクは一睡もする事なく、線香を絶やさなかった。
母が寝て、線香をたやさないようにしながら
薄暗い部屋で父の顔を見た。
あっさりといっていいほどあっさりと
父が亡くなった。人は死ぬんだ。親は死ぬんだ。その顔を見つめて、その時にようやく実感が湧いた。父が亡くなってからこの時初めて涙が出た。
親孝行らしいことなんて出来なかった。
父との思い出なんてほとんどない。
昔のことがどんどん記憶の中から溢れてくる。
ボクの離婚が決まったとき、ボクの娘を目に入れても痛くないほどに可愛がっていた父に
涙を流してながら離婚することになった事を
謝った事。父は、優しい顔で「しょうがないやろ」と一言。
借金を抱えて迷惑もかけた。
本当に不甲斐ない息子だった。
ごめん。
もっと父と話せばよかった、無口な父だからと交流を自ら持たなかった。ダメな息子。
無論子供の頃は遊びに連れて行ってくれた思い出とかはある。
大人になってからは、、、。
唯一あった。

ボクが30代半ばの頃
ふと思いたって車で旅行に行こうと思い
ずっと行きたかった出雲大社、島根県にある松江城へ行く。歴史好きの父に話すと行きたいとの事。母は行かなかった。
初めての二人旅。
福岡を21時ごろに出て高速に乗り浜田道路へ
途中からは高速道路は通ってないので9号線を走り出雲大社へ着いたのは朝6時過ぎだったと思う。父はとても喜んでいた。
次は松江城。現存天守12城の一つだ。
作られた当時のままの天守閣。大きな城ではないけど圧巻だった。良いお城だ。
松江城の後は父には申し訳ないがボクの趣味でどうしても行きたかったところへ。
鳥取県境港市。
水木しげるロード、そして水木しげる記念館を巡り高速へ飛び乗り福岡を目指す。
帰宅したのは21時ごろ。
ちょうど24時間の旅だった。ボクは一睡もしないでの運転だったけど、とても楽しかった。
父も出雲大社、松江城に行けた事喜んでいた。
親孝行とはとてもいえないような小さな事だけど、数少ない思い出の中でも父とボクの二人だけの思い出。

通夜から一睡もせず朝を迎えて葬儀を終え
火葬場へ。
兄貴家族、母、ボク、叔母二人で骨を拾いました。
父の骨を入れた骨壷はボクが抱えて家に。

そして、納骨の日が近づく。
ボクが母を車に乗せて
兄貴家族は別の車で2台でいく予定だった。
しかし
ボクは、納骨の日の二日前に体調崩して発熱。
納骨には行けなかった。
結果、新型コロナに罹患していました。

父の納骨にも行けない
不甲斐ない息子らしいよな、、、。
ボクは、自分のそれまで使ってた部屋より
少し狭くなるんだけど
父が使っていた部屋を使いたいと母に頼んで
部屋を変えた。
今は父が過ごした空間で過ごしている。
だから何だと言われれば
確かにそうなんだけど。

父さん、ごめんね。こんな不甲斐ない息子で。

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