見出し画像

ある日、それは見出される

(この文章は、2020年度埼玉大学経済学部宇田川ゼミナール卒業論文集の巻頭言として作成された、卒業生へのメッセージです。)

卒業おめでとう。心から皆の卒業をお祝いします。
そして、3年間皆と共にゼミを作ってくることが出来たことに感謝しています。自分も含め、ひとりひとりがゼミを作るメンバーとして、素晴らしい時間を過ごすことが出来ました。その時間が今はとても良い思い出です。ありがとう。

新型コロナウイルスの蔓延で、この1年間皆と会うことが出来ませんでした。最後に会ったのはいつのことだったでしょうか。もちろん、ZOOMでの研究指導の時間はあったけれど、やはり生身の人間として、実際に会って話したかったなと思います。
卒業式も例年のように行うことは出来ないし、恐らく、ゼミのメンバーひとりひとりも、思ったような学生生活が送れなかったことを残念に感じているのではないでしょうか。それは僕も同じです。とても寂しく、悲しい気持ちもあります。「コロナさえなければ」と思うことは本当にたくさんありました。

自分の座右の銘のひとつに、「すべてのことには時がある」という言葉があります。「時がある」というのは、意味を見出す時がある、ということではないかと思っています。
人生の中で様々に起きる出来事について、今、その意味は自分には見えないかもしれない、けれども、いつかそのことの意味を見出す時が来る、だからその日が来ることを信じて懸命に生きていこう、ということだと理解しています。
しかし、そのために私達は何をすることが求められているのでしょうか。ただ、その時が来ることを待つだけで良いのでしょうか。もちろん、それで良いかもしれない。冬になっても、いつか春が必ずやって来る。だから、それを焦らずに待つことも大切です。
でも、「待つ」というのはどういうことなのでしょうか。苦しい状況の中、ずっとおとなしく座っていることもできないのが人間でしょう。春が来るまでジタバタともがいて、苦しい思いをしながら、必死に過ごしているけれど、なかなか良い成果につながらない、そんな時間もあるように思うのです。それが、待つ人間の実際の姿ではないかと思います。
そういう時間は、何か人から評価されるような成果を生み出しているわけではない。だけれど、何かは残っているのだと思うのです。
そのことについて少し話したいと思います。

私が大学院生の頃、小さな会社の経営者であった父が病で亡くなったこと、そして、その後、父のバブル崩壊後の敗戦処理の辛かった時間については、『他者と働く』に書いたとおりです。大学院生で研究成果を残さなければならないのにも関わらず、研究をする精神的余裕も時間もなかったことも非常に辛いものがありました。
どうして自分はこんな目に遭わないといけないのかと、自分の人生を恨んで生きていました。でも、そんな人生でも、なんとか生きなければなりません。何とか研究をしなければ職を得ることも出来ません。辛いけれどがんばるしかない。必死にもがくような日々でした。

自分は、ある大学のビジネススクールで任期付きの助手を務めた後、長崎大学の教員公募に運良く採用され、大学教員になることができました。でも、このとき、僕は本当に研究で悩んでいました。自分の研究の価値を自分で信じられなくなっていたのです。
というのも、私が所属していたビジネススクールは、企業で働く人々の課題と向き合う場所で、それまで自分がやってきた抽象度の高い理論研究とは全然違う世界でした。
そこで研究をする中で「で、あなたは何を研究したいの?」という問いを突きつけられたことが何回かありました。父との経験からも、自分なりに問題意識はあるのですが、上手く答えられないことがとても悔しく、自分の研究には意味がないのではないかと感じるようになりました。
でも、どうしてそう思ったのだろうと振り返ると、理由があるように思いました。生前、大学院生だった自分に父親は「お前の言うことは学者の戯言だ」と言ってくることがよくありました。毎度そのことで口論になりましたが、確かに自分の研究など、父親にとって何の役にも立たなかったのは事実でしょう。自分なりに父を助けたかったのですが、自分にはうまくそれが出来なかった。
だから、ビジネススクール助手時代に「で、あなたは何を研究したいの?」と言われたのは大きなショックだったのです。自分は何の役にも立たないことを研究者面をしてやっているだけなのではないかと思ったのです。

そんな中、長崎大学へ赴任し、研究者として独り立ちしていくことが求められる立場になりました。傍から見れば、大学教員としての職を得られて良いように思えたかもしれませんし、自分が望んでいたことでもあります。でも、自分の研究には意味があるのだろうかと、そんな人間が研究者として職を得ていいのだろうかと、とても悩みました。その悩みは、何年も続きました。

自分にとって大きな転機になったのは、教員として3年目の冬、非常勤で、とあるMBAコースで教えることになったことです。ビジネススクールの助手で挫折を覚えた自分にとって、MBAで教えるということは、大きな挑戦というか、正直怖かったのを覚えています。しかし、頑張ってやってみようと思いました。
当時はまだ珍しかった遠隔制のオンライン講義で、自分は長崎大学在籍の最後の年の冬に、自宅から経営戦略論を教えることになりました。前日の夜には、あまり良く眠れないほど毎回緊張しながらの講義期間でしたが、自分なりには精一杯のことをやりました。
すべての講義が終了後、皆で顔を合わせる機会がありました。その時、一番熱心に受講していた受講者の方が駆け寄り「先生の講義を通じて、自分が頑張ってきたこと、仕事で感じていた違和感や葛藤に意味があるのだとわかった気がします。勇気を貰いました。ありがとうございました」と言ってくれたのです。
その言葉を聞いて、悩んでいたことに少し光が差し込んだような気がしました。自分は葛藤を抱えながら働く人々の役に立ちたかったのではないかと気がついたのです。役に立つとは、その人が、その身に起きた出来事に意味を見出すことを手伝い、歩みを進めていくことを支えることではないかと思います。そして、その人々の役に立つことを通じて、自分自身も助けられるのだと思いました。

MBAコースでの出来事から10年以上の時が経ちました。今でも自分の研究に意味はあるのだろうかと悩みは尽きません。でも、働く人々の葛藤や違和感に対して役に立ちたいという想いを持って、自分なりに精一杯のことをやっていくことが大切だと思うようになりました。
常にそこにあったのは、他者という存在でした。
助けたかった他者、問いかけてくる他者、そして、私を受け入れてくれた他者という存在です。
他者を通じて、私が新たにされるのだと思うのです。新たにされるまでの時間は苦しいけれど、それを通じて、ある日、新たな私が見出されるのだと思うのです。

これから社会に巣立っていくゼミ生たちにとって、このコロナ禍は色々なことを考えさせられる時間だったと思います。諦めなければならかなったこともたくさんあったかも知れず、辛いことも多かったのではないでしょうか。
もしかすると、嫌な思いをすることはこの先にも何度もあるかもしれません。自分のアイデンティティが揺らがされることもあるかもしれない。
でも、来たるべき日までのもがきの中で、様々な事象に対するセンサーは鍛えられ、新たな自分を見出す力が我々には備えられます。

新たにされた自分を見出す時は、必ず来ます。
だから、精一杯その日まで、もがき続けようではありませんか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?