彼らのこと

≪過去noteを移動させています≫

今日の昼間は気温が高くて、夏が戻ってきたような気持ちがして、ほっとした。でも、見上げた空はとても高くて、季節は間違いなく移り変わっていることを、実感。さみしいなぁ。ついでに日没もぐっと早くなった。

秋が、来る。

わたしは、9月と10月が苦手だ。

って、それだけが苦手かのように書いているけれど、普通に冬も苦手。

年末年始が苦手、なんなら春も好きじゃない。わがままか!!

心から好きなのは、梅雨を除いた5月から8月までなのかもしれない。

9月と10月が苦手なのには理由があって、辛い辛い思い出があるからで、それはもう過去でしかないのだけれど、思い出すたびにまだ、胸が苦しくなってしまうのだ。

人間、手に入ったものを手放しても、振り返らないものなのかもしれないし、納得した別れがあるのであれば、人間関係は思い出として消化していけるものなのかもしれないと、今のわたしは思っている。

つまり、9月10月には、手に入らなかったけれど、手放すしかなかった別れがあったというわけだ。簡単に言えば、そう。

もう、ずっと昔のことだから、思い出もうっすら靄がかかったようで、鮮明に思い出すことはできないし、多分きっと美化されているんだと思う。

でも、わたしはまだ、時々思い出して、心を痛めてしまう。

ケッコンもして、リコンもして、バツイチコモチとして10年以上を生きているのだけれど、「そういう意味で」思い出すのは、2人だけだ。

勿論いま、わたしには恋人がいて、恋人のことだけが好きだから、その2人とどうこうしたいとか、会いたいとか、連絡したいとかは全くない。

それに、連絡先も知らない。

相手はもうわたしが知る由もない人生を歩んでいることは、百も承知。

でも、思い出してしまうんだよね。そういういことって、ないですか?

好きだった。そういうわけではない。

正確に言えば、好きだったのかどうかさえ怪しいもので。

執着だったのかもしれない。

「手が届かない」「手に入らない」そう頭では分かっていたから、心残りのように、胸の奥にべっとりと残っているのかもしれない。

決して、後悔はない。未練もない。そう、これは未練ではない。

でも、辛かった。それは、本当の話。

それまでは、季節が移りゆく、秋に差し掛かるこの季節が好きだった。

夕暮れが好きだった。

晩に、少し肌寒くなるときに、羽織るカーディガンが好きだった。

半袖のニットを着るのも好きだった。

でも、今は、苦手。ずっと夏ならいいのに。

またいつか、この季節を愛せる日がくるのだろうか。

新しい生活が訪れれば、いつか手放すことしかできなかった、わたしの想いも消化して、風化して、葬ることができるのだろうか。

まだ、自信がない。

でも、そうしたいと、思っている。

ケッコンに失敗したわたしは、踏み出す一歩にとても慎重で、怖がりだ。

でも、踏み出したいと思っているのも、確かな気持ち。

簡単にはいかないことは、分かっている。時間もかかるだろう。

育てていけるだろうか?

ふと、思う。秋の夜長。あぁ、無駄にセンチメンタルになる。

好きだった、のだろうか。

切り取った、好きなシーンはたくさんある。

芝生の中で見つけた四つ葉のクローバーや、一緒に買いに行った自転車や、泣きながら電話したら抱きしめにきてくれたことや、

初めて、繋がった日のこと。

裏切りを背負って、お互いの叶えたいことを、打ち明けて、叶えたこと。

あの、連なった冗談の中にあった、一瞬の「本音」。

最後に、繋がった日のこと。

忘れられない。忘れたい。忘れたくない。

手に入らなかったものは、いつまでも愛おしく、苦しいものなのかもしれないね。手に入らなかったからこそ、この関係には「終わり」がなかったから。「終わり」がなかったのに、「終わった」から。

9月も、10月も、苦手なことは、今年も変わらない。

そしてわたしは、まだ思い出す。あの日々たちのことを。彼らのことを。

どこで、どうしているのかもわからないけれど、幸せでありますよう。

あの時の、わたしも、彼らも、迷子でしかなかったけれど、今は「居場所」を、きちんと見つけられていますよう。

わたしなんかに願われても、余計なお世話でしかないけれど。

苦手なこの季節に、彼らを思い出すことは、まだ続くだろう。

わたしも「居場所」を見つけて、しあわせにきっとなるから。

あなたも。あなたも。どうか。

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