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Interview vol.12 たかはしそうたさん(映画監督) 『上飯田の話』の次は『元町の話』を作りたい

   第12回は、7月27日より初長編、『上飯田の話』が公開される映画監督のたかはしそうたさんです。4月に神戸で長期滞在、6月からは神戸に滞在しながら、当館受付スタッフとしても活動していただいている #神戸住みます監督 です。


■授業で映画を撮っていた、オーストラリアの高校留学時代


―――たかはしさんは横浜生まれのいわゆる“ハマっ子”だそうですね。
たかはし:横浜は東の方は栄えていますが、僕が住んでいたのは上飯田町と同じ西側の泉区にあるベッドタウンです。なので“ハマっ子”と聞いて皆さんが思い浮かべる景色とは全然違いますが、一応ハマっ子ですね。

―――ユニークな発想が映画からも溢れていますが、どんな子どもだったのですか?
たかはし:こどもの頃はビデオで『スターウォーズ』シリーズや『ミュータント・タートルズ』シリーズを観るような子どもでした。それと、実はサッカー少年だったんですよ。小学校時代はクラスで一番うるさい子でしたが、中学時代はヤンキーが幅を利かせていたので、僕はそちらではなく、クラスの中心グループの末席にいる感じでした(笑)。

―――高校から映画を撮り始めたそうですね。
たかはし:そうなんです。『上飯田の話』の2番目のエピソードに出てくる家は、僕の祖父母の家なのですが、その祖父の勧めで、オーストラリアのメルボルンにある高校に留学しました。そこはオーストラリアの中でもアート科目が選択できることで有名な単位制高校で、Video Productionという授業を選択しました。そこで映像制作したのが僕の作り手としてのスタート地点です。ミニDVテープと小さなカメラで、今だともう見返したくないような恥ずかしい作品を作っていました。ただ出演者は豪華で、現在俳優で活躍している小林リュージュくんがオーストラリアの高校の1学年上の先輩だったので、僕の初期の映画に出てくれているんですよ。数年前、リュージュくんが東京藝術大学のプロジェクトで出演してくれたときに10年ぶりぐらいで再会でき、「お互いに、まだ続けてるんだな」と。

―――高校の授業で一緒に映画を撮った仲間が、今もお互いに映像の世界で活躍しているというのは、貴重だし、嬉しいですよね。そして大学入学時にたかはしさんは日本に戻られたと?
たかはし:オーストラリアの大学に受かっていたのですが、直前にやはり日本に戻りたいと思い、AO入試で東京造形大学映画専攻領域を受験しました。当時学長だった諏訪敦彦さんの面接を受けて、入学することができました。

『上飯田の話』ポスター

■「映画とは何か?」根源的な問いからはじまった大学での学び


―――たかはしさんは諏訪ゼミ生でもあり、まさに諏訪監督は師匠的存在だと思いますが、どんなことが印象深かったですか?
たかはし:大学、大学院と諏訪さんのもとで学んでいたのですが、諏訪さんは、映画の撮り方を教える!という人ではありません。むしろそういう本質的な部分はほぼ言わない。学生達に考えさせて、自分で答えを見つけてくれという感じでした。なので具体的に在学中何かを学んだという印象はあまりありませんでした。が、今になって思うと僕は諏訪さんから「そう簡単に人や物にキャメラを向けてはいけない」という禁則というか倫理を学んだような気がします。例えば今はカメラは小さいし、スマホでも撮れるし、撮影することは本当に容易い。容易いからこそ、その前で一度踏みとどまらなければならない。諏訪さんはよく「キャメラというのは権力だ」と言います。撮影者はいつでもその権力を行使して撮影することができる。できるが、そう簡単にしてはいけない。それはイメージを相手から盗み取るという行為であるし、フェアな関係ではない。キャメラを回す前にはそれ以前にもっと被写体となる人(や場所)と関係を作ることで初めて撮らせてもらうことができる。そうした撮影の前に立ちはだかる倫理の壁の存在を教えてくれた気がします。もちろん在学中にはそんなことわからず、後になってわかってきたことなのですが。
 大学時代はそんなことがわからないので、大学時代とか諏訪さんの影響もあり、誰しもが即興で撮ってみたりするんです。そしてそれが全然うまくいかない。そうした体験を通じて、そう簡単にやってはいけないことなんだということを体感的に知った気がします。
 他にも例えば造形大の授業で覚えているのは、5名で1グループになり、ドキュメンタリーを撮るという課題が諏訪さんから出されたことがありました。諏訪さんは「ドキュメンタリーとは何か」から考えさせるんです。当然そのグループ内で答えを出せるわけもなく、行き詰まっていく。ドキュメンタリーって何だろう、映画って何だろう、どうして撮るんだろう、そうした問いを考えれば考えるほど、最終的に何を撮ったらいいのかわからなくなる。その行き詰まったところからはじまるというのが、造形大の映画の特徴になっていたし、だから他の映画学校の学生が作った作品に比べて、当時は作風がかなり暗かった。僕もそいういう袋小路に入り込んでいました。大学の卒業制作は、それでも課題作を出さなければならないので、とりあえずカメラを借りて、録画ボタンを押すわけですが、この状態で友達を被写体にするのも申し訳ないし、結局家族や自分にカメラを向けて、なんとか作り上げた。結局、〆切近くになってカメラを向けられる、向けさせてもらえる存在っていうのは自分に一番近い人たちになってくるんですね。
 映画って何だろう、どうして映画を作るんだろう、という問いから悩み始めるということが、在学中一番学んだと思えることです。

―――根源的なことですね。
たかはし:そういう問いを抜きにして映画を作ることはもちろんできますが、どういう話を作るのかを考える一歩前の、そもそも映画とは何だろうという問いから始められたというのは、今になって思えば幸せなことだと感じます。そう簡単に人や物にキャメラを向けてはいけないということは『上飯田の話』を撮るときに頭にありました。
 もう一つラッキーだったのは、僕が大学1年生のとき、諏訪さんが造形大にペドロ・コスタさんを招聘し、年に一度、特別授業をしてくださったこと。ペドロ・コスタさんも倫理的な問いを常に考えながら映画を作る人で、彼の言葉がすごく美しかった。今もその全てがわかっているわけではないけれど、映画を作っている人の言葉や姿勢はこういうことなんだと感じたし、実際に目の前にその存在があったことは忘れがたい体験です。その講義は「歩く、見る、待つ ペドロ・コスタ映画論講義」(ソリレス書店刊)として出版されています。

『上飯田の話』撮影現場にて

■働きながらの映画づくりと見えた限界


―――学生時代に思考を深めるいい体験をされましたね。一度就職されていますが?
たかはし:大学4年で東京藝大の現場にエキストラで入ったときに、スタッフを含めると僕たちが学内で組んでいた人数の10倍ぐらいの大人数で映画をシステマチックに作っているのを目の当たりにし、僕が作りたいのはこういうことではない気がしたんです。だから映画を作っていきたいという想いを持ちながら、自主制作で続けるのがいいんじゃないかと思いました。また一方で社会のことを学ぶためにも、一度就職をしようと、イベント制作会社に入社し、5年間働きました。こういう働きながら映画を作る方が、自分の性分に合っているだろうなとも思っていました。

―――社会人経験を経て、システマチックとおっしゃっていた東京藝大大学院に入られますが、どういう気持ちの変遷があったのですか?
たかはし:働きながらの自主制作では、僕が撮影、監督、音声などを兼ね、たまにもう一人スタッフが加わるぐらいの最少人数で作っていたし、そういう映画作りがしたかった。というのも、大人数を束ねる自信があまりなかった。気持ち的な面だけでなく、予算的にも僕が誰かに満足のいくお金を支払うのは難しいという現実があります。いてもらうというのは誰かの時間を拘束することだし、それに見合うお金を払わなければいけない。それが働く人の生活を支えるわけで、あまり安い金額でお願いすることは避けようと思っていました。実際にスタッフが少人数だと俳優のみなさんと自由度の高い現場を作ることができたといった良い部分もあったのですが、一方で続けていくうちに限界も見えてきました。

■社会人経験での学びと、衝撃を受けた修了作品『小さな声で囁いて』


―――ステップアップする時期がきたと感じたわけですね。
たかはし:大学のときは「こういう映画を作りたい」と言葉にすること自体、どこかその映画を狭めているように感じて、それっていいことなのか?という疑問を持っていましたが、社会人生活をする中で、自分の考えを言葉にして伝える方法がなんとなくわかってきました。また、社会人のときにはイベントディレクターとして大人数を束ねていました。大学時代はできなかったし、やりたくもなかったけれど、5年経ったときにより大きな現場を束ねられる自信もなんとなくできてきたし、自分のつくる映画をスケールアップしたいと思うようになってきたんです。
 もう一つ、僕の大学の後輩で、今年『熱のあとに』が公開された山本英くんが大学院の修了制作で『小さな声で囁いて』という映画を作ったのですが、その作品が衝撃的だったんです。藝大の大学院は、もっと商業的な映画ばかりを作っていると思っていたのですが、こういう映画も作れるんだという驚きと、僕もこういう映画を作りたいという思いが一気に膨らんだ。
 会社では、営業からはじまり、企画、見積もり、準備、イベントの実施、そして最後に請求書を出すまで様々な業務をすることができたので、仕事の成り立ちかたもわかり、それを大きくすると社会の仕組みになるということがなんとなくわかってきた。また礼儀や恩義の返し方など、社会での生き方もわかるようになってきた社会人5年目で退職を決意しました。父には「お金をくれとは言わないので、応援してください。実家に住ませてください」と頼み、実家に戻って受験準備を始めたんです。1度目の受験は実験色の強い作品を提出し、僕は好きだったのですが不合格だった。だから2回目の受験では、しっかり劇映画の作品を撮り、なんとか合格できました。

©︎たかはしそうた

■『上飯田の話』は、祖父の家を記録したいという気持ちが出発点


―――ようやく東京藝大大学院で映画制作ができると思ったら、今度はコロナ禍に突入してしまったと…。
たかはし:そうなんです。期待していた実習ができるかどうかわからないと言われたこともあり、休学しながら、諏訪さんのゼミに顔を出したりしていました。休学したのが2020年の6月だったのですが、その時期に僕の背中を度々押してくれた祖父が老衰で亡くなったんです。その家が売りに出されることになり、僕としては寂しいという気持ちから、せめて映画で祖父との思い出が詰まった家を残しておきたいと思った。それが『上飯田の話』を撮るきっかけです。

―――家の中のお洒落な内装や、洋画が飾られた素敵な家だなと思いながら作品を鑑賞していたのですが、祖父の家を残すことがきっかけだったんですね。
たかはし:そうですね。祖父の死後、遺品整理など用事で祖父の家に行きがてら、その周りを散歩していたところ、たまたま「上飯田ショッピングセンター」を見つけたんです。見つけた瞬間、これはすごくいい建物だと感動しました。ショッピングセンターという名前だけれど、僕が普段行っているショッピングセンターとは雰囲気が違いました。実際に中に入ってみると、八百屋や乾物屋さんが、今はあまり見ないようなスタイルの対面販売で営業をされていたし、入ってすぐのかつては文房具屋であったことがうかがえる空テナントのショーケースの中の棚に、3人ぐらいのおばあさんが腰をかけながら談笑していた。その姿を見て、本当にいい場所だなと思ったんです。美術さんにお願いして作れるようなものではないし、もしここで映画を撮るなら、美術がここから更に手を加えるのではなく、この場所が持っている今のままの魅力をなんとか残したいなと思いました。しかも祖父の家も近いので、歩いて撮影に通えます。環境としても最高だなと思いました。

©︎たかはしそうた

■上飯田の情報を仕入れに居酒屋へ


―――映画では上飯田ショッピングセンターや地元の方が全面協力されていますが、どうやって糸口を掴んでいったのですか?
たかはし:まずは、上飯田ショッピングセンターに併設されている居酒屋「和らく」に日々通いました。ロケ地として使わせてもらえたらという気持ちもあったし、そもそも上飯田は祖父や母が暮らしてきた場所ではあるけれどそれ以外の情報は知らなかったので、和らくのお客さんと話をすることで、地域の情報を仕入れようと思ったんです。カウンターでひとりで飲みながら、常連さんたちの話し声が聞こえてくるのですが、あるとき、昔ここで神輿を担いでいたと聞きました。詳しく話を聞くと、40年間倉庫に眠っている神輿があることがわかり、それも映画のひとつのエピソードとして物語のどこかに入れることができないかなと、そんなふうに「和らく」で聞いた話を活かしていきました。その後、上飯田ショッピングセンターを統括されている方に正式にお話をし、最終的には撮影許可をいただきました。

―――ロケ地の次は、出演者ですね。地域の方も出演されていますが、俳優陣のキャスティングについて教えてください。
たかはし:僕はオーディションをするのがすごく苦手なんです。全員よく見えるし、オーディションで少し話すぐらいではその俳優のことがわからない。それに僕は当て書きの方が脚本を書きやすいということもあり、俳優の知り合いを増やしたいと思っていました。ちょうど大学時代からの知り合いが所属している芸能事務所のエビス大黒舎で、俳優が自主的に台本を持ち寄った自主稽古をしていたので、見学に行かせてもらい交流を深めるうちに、それぞれの個性が見えてきたんです。そこにいたのが『上飯田の話』の出演者6人で、いざ映画をつくるというときにそこから数人を選んで映画を作るのはイヤだと思い、6人全員に出演してもらうことにしました。

―――6人が出演するとなれば、自然と群像劇かなと思ってしまうのですが、本作はゆるやかなつながりが見える短編集のような趣でした。
たかはし:現実問題として、ロケ地の一つである家が売り払われるまでは時間があまりないと思い、早く撮る必要がありました。そうなると長編のシナリオを書いて撮るのは時間的に厳しい。でも短編のシナリオ3本なら書けるのではないか。もともと小話のような短編を書くのが好きなので、1話にふたりずつ出演してもらえばちょうどいい。そこから組み合わせを考え、短編3話という構成も決まりました。ただこの場所を映すことで残したいという気持ちがあったので、全てフィクションの世界で固めてしまうのはイヤだった。上飯田に住んでいる人たちと一緒に映画を作ることで、関係が築けていければいいなと思い、実際に住んでいる方に出演していただきましたし、それが思いの外楽しかったです。

©︎たかはしそうた

■自分の思うどおりにならないことの面白さ


―――映画を観ていると、上飯田の住人の方のお話は、地域の歴史が刻まれていましたね。
たかはし:そう思っていただけて嬉しいです。例えばスポーツ用品店の店主のおじいさんがバナナの木のことをしゃべるシーンがあります。実際に撮影前にそのお話を聞いた時、すごく面白いと思ったし、その佇まいがとても良かったので、ご本人に「そのバナナの話をもう一度話してください」とお願いし、出演していただきました。脚本には「バナナの木の話をする」とだけしか書いていませんでしたが、結果、とてもいいシーンになったと思います。
 イベント制作会社で働いていた経験から、撮影の準備をしようと思えばどこまでもできる自負はありました。ただそれができるからといって、映画が面白くなるかどうかは全く別の話で、自分の頭の中で描いた通りのものにしかならない。地元の人に出演してもらうというのは、本番でどうなるかわからないし、準備をしてもしきれるものではありません。その方が僕にとっては作っていて楽しい。最終的には「何か起きてくれ!」と祈っていました。でも、そうすると何かが起きて、「上飯田、すごいな!」と思いました(笑)こういうふうに『上飯田の話』では、自分の思うどおりにならないことの面白さを、体感として得ることができました。

―――今、たかはしさんはシネマテークたかさきTシャツを着用されていますが、『上飯田の話』は高崎映画祭の「監督たちの現在(いま)部門」で上映されたそうですね。

たかはし:『上飯田の話』は2021年に完成しましたが、あらゆる国内の映画祭にエントリーしても全く入選できなかった。学内で諏訪さんや筒井武文さんに観てもらい、感触は悪くなかったのに自分としても悔しい気持ちでいっぱいでした。そのとき、『ふゆうするさかいめ』の住本尚子さんなど、知り合いが劇場と直接掛け合って上映する自主配給という方法を知りました。映画自身の実績もなければ、僕自身の映画業界での実績もない状態からの自主配給スタートなので非常に厳しかったのですが、初めて劇場公開したポレポレ東中野で、高崎映画祭の新人監督部門と言える「監督たちの現在(いま)部門」のプログラミングディレクターが観てくださり、完成から3年ぐらい経ってようやく、今年の高崎映画祭に入選することができました。

『移動する記憶装置展』ポスター

■上飯田ショッピングセンターの店舗数激減で撮影を決意した『移動する記憶装置展』


―――それは、感無量ですね!当館で『上飯田の話』を上映するタイミングで、神戸映画資料館では姉妹作品とも言える『移動する記憶装置展』が7/20.21に上映されます。
たかはし:『上飯田の話』の後、東京藝大大学院に復学し、修了制作の時期になったとき、企画を考えていたのですが僕が映画を通じて伝えたいものというのがなかった。どんな企画にしようか迷いながらも数ヶ月ぶりに上飯田の居酒屋和らくで飲もうと、上飯田ショッピングセンターに立ち寄ったら、店舗数が目に見えて減っていたんです。営業している店舗を入り口の方に集め、奥はバックヤードとして物置のように使っているのを見て、これは今撮っておかなければいけないと直感しました。建物も老朽化しているし、多分誰も映像として残さないと思い、もう一度上飯田で撮ることにしたんです。

©︎2023 東京藝術大学大学院映像研究科


―――今回はメインキャストが佐々木想さん、影山祐子さん、廣田朋菜さんの3人です。
たかはし:最初に決まったのが映画監督の佐々木想さんです。10年前、エビス大黒舎の若手俳優が出演する短編映画を想さんが監督したとき、僕が録音部として参加し、面白い方だと思っていました。藝大大学院のゼミで即興演出のワークショップがあったとき、もともと演劇もされていた想さんに久しぶりに連絡をして来ていただき、修了制作にもそのときからぜひ出てほしいと思っていました。そうなると、話は何も決まっていないけれど、撮影場所とキャストは決まった。そこで初めて「こういう物語がいいかな」と思いついてきました。当初は『上飯田の話』と同じく3話構成を考えていたのですが、2週間で撮り切れるシーン数ではなかった。そこで方向転換し、映画のきっかけは上飯田という場所なので、3つの中でいちばん上飯田に住んでいる人との関わりが深い短編を選び、話を広げていきました。そんなときに知り合いからの紹介で影山さんを知り、出演いただくことになりました。廣田さんはさきほどの想さんの短編に出演され、既に僕との接点があったことや、廣田さんが想さんの映画がお好きだということもあり、出演していただくこととなりました。

―――2作品に共通して言えることですが、本当に登場人物のアップの数が少ないですね。『移動する記憶装置展』では廣田さんが演じるスミレがある場所で倒れたときの表情のみです。
たかはし:映画でアップを撮るのは本当に難しいですね。僕は、映画の中でクローズアップにしたところで、その人の感情はわからないなという時のみ、おそらくクローズアップは使えるだろうと思います。それ以外の場所で入れると、「この人の気持ちを感じなさい」という圧を観客に与えてしまう。そういう使い方はしたくないという気持ちがあり、『上飯田の話』でもその人の感情はわからないだろうという場面で挟んでいますし、『移動する記憶装置展』ではそういう瞬間かつ、倒れている廣田さんの顔を横向きでアップで撮っている。まさにここしかない唯一のアップです。

©︎2023 東京藝術大学大学院映像研究科


■たかはし流「いい声を得る方法」とは?


―――『移動する記憶装置展』では、前半に上飯田の人が語った、かつて皆が若く熱気があったころのエピソードを、後半登場人物たちが自分たちの言葉でそのテキストを語っています。濱口竜介監督も東日本大震災で被災した東北三部作『なみのおと』、『なみのこえ』『うたうひと』で地元の人たちの語りや民話を映像に記録していますが、俳優が改めて語り直し、その人の疑似体験になるという感覚を与える作品は、あまり例を見ないですね。
たかはし:例えばジャン・ユスターシュの『不愉快な話』は、前半フィクションパートで後半はドキュメンタリーと、似たような構造の作品はあるかもしれませんが、誰かの声をヘッドフォンで聞きながらその場で話している姿を撮るというのは割と珍しいと思います。濱口さんといえば、『ハッピーアワー』を撮るにあたり、イタリア式本読みをされています。なぜそれをするかといえば、濱口さん曰く「いい声を撮りたい」からだと。いい声を聞くための方法として、感情を乗せず、棒読みをしてもらうわけですが、僕はそれとは違う方法で、いい声を得たいと思った。
 この作品では廣田さんが演じるスミレにそれをやってもらっていますが、彼女自身が色々な作品内で変わったことをさせられることが多い俳優で(笑)、おそらく何か違うことをさせたくなるような人としての魅力があるんです。多くの監督は廣田朋菜という俳優に対し、いろいろなものを被せていく作業をし、どんな変わったことをさせるかという、いわば大喜利状態になっていた。でも、僕はその反対に、被せたものを取っていく作業を試みました。つまり、全く無意識になった声や顔を撮る。多分、今までこういう廣田さんは画面に映っていないであろう無防備な状態で。きっとそういうときには、僕が思ういい声やいい表情が得られるのではないかと思い、聞きながら語り直すことを映画でやってもらいました。

©︎2023 東京藝術大学大学院映像研究科


―――昔の神輿の話は『上飯田の話』でも語られましたが、『移動する記憶装置展』では40年ぶりに復活し、しかも地域の子どもたちが担いでいきます。たかはしさんはわかりやすい感動を映画に挿入するタイプの監督ではないと思いますが、埋もれていた地域の記憶を蘇らせ、次世代に伝えている感動的なシーンでしたね。それこそ、準備が大変だったと思いますが。
たかはし:『上飯田の話』のときも本当は神輿を出したかったのですが、スタッフの規模が僕を入れて5人ぐらいだったという人数面での制約と、神輿は信仰の対象なので縁もゆかりもない者が映画のために使うということはいかがなものかと踏みとどまり、神輿の話をしている人を撮ったり、かつて神輿が通ったであろう道を巡ったりすることしかできなかった。修了制作ではある程度予算もあるし、スタッフの人数もいるので神輿を出せるマンパワーはあるわけです。せっかく信仰の対象の神輿を映画のために出すなら、上飯田に住む子どもたちに担いでほしいと思い、上飯田小学校の方にご相談して、エキストラ募集をし、40年ぶりに復活した神輿を小学生たちが担いでくれました。

―――上飯田のみなさんも、とても喜ばれたのではないですか?
たかはし:40年前に神輿を担いだ人たちが集まってきて、「まだ(神輿が)あったんだ!」と思い出話をしておられましたね。今のところは上飯田二部作ですが、三部作にしようと頑張っています。僕はそこまで三部作にこだわっていないのですが、廣田さんが「上飯田サーガ」と言ってくださるので(笑)

元町映画館受付で勤務中。Xでは、#神戸住みます監督 で発信している


■映画に歴史は映らないけれど、過去のことを語っている人は映せる


―――#神戸住みます監督のたかはしさんは、公開前から神戸に住み込むだけでなく、映画館の受付業務もこなし、まさにアーティスト・イン・レジデンスですね。
たかはし:僕の場合は、勝手に「アーティスト・イン・レジデンス」で、頼まれてもいないのに来ています。神戸ではいろいろな人のお話を聞きたいですし、街歩きも好きだし、昔の神戸を知っている人に話を聞くのも楽しいです。神戸だからというわけではなく、いろいろな人に話を聞くことを続けていきたい。『上飯田の話』に続く、『元町の話』を作れたらいいなと密かに思っています。まずは素材だけでも集めておきたいですね。映画に歴史は映らないけれど、過去のことを語っている人は映せる。過去のことを思い出して語っている人を見ると、いいなと思うんですよ。

―――#神戸住みます監督だけでなく、#過去の話を聞きます監督にもなりそうですね。『元町の話』も期待しております!今日は受付シフトの合間に、たっぷりお話しいただき、ありがとうございました。
(2024年6月8日収録)

<たかはしそうたさんプロフィール>


東京造形大学映画専攻領域を卒業後、5年程会社員として働きながら自主製作映画を作り続ける。2023年、東京芸術大学大学院映像研究科映画専攻監督領域を修了。
『上飯田の話』はコロナ禍で大学院を休学していた2020年に撮影。2023年劇場公開。大学院の修了制作として監督した『移動する記憶装置展』(PFFアワード2023観客賞受賞)は同じく上飯田町を舞台としている。2作の関西上映のため神戸に滞在し宣伝を行っている。
好きな港は神戸港。

Text江口由美

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