見殺しにする勇氣

保育園の先生達が、とうとうワクチンを打ち出した。しかもそれは本人達の口から聞いたのではない。子どもを通して知ったことだ。

「◯◯先生はお注射打ったから、腕が動かないんだって。××先生は、お休みなんだって」

たしかに、我が家にも自治体からワクチン接種券は郵送されてきたし、そろそろかなと思っていた。どうしようかと悩んでいるうちに、このときは来てしまった。

6月に義母が打ってしまって以来、私はリアルな人間関係下で誰かを説得する氣は失せてしまった。もう本当に、心底どうでもいいと嘆いている。身内を説得できなかったのに、他人を説得できるのか?という思いもある。

ほんの一瞬でいいなら、わたしにも説得はできると思う。その場限りなら、可能だ。しかし、コロナ脳への洗脳は深刻で、日々テレビのニュースを見ていれば「やっぱりコロナは怖いし打ったほうがいい」と上書きされてしまうのだ。テレビの言う通り、素直に怖がることで、大多数の意見になることで、安心していたいんだろう。反発するのは疲れるし思考する筋力も無いから流されていたいんだろう。

今日、とある知り合いに「都内のコロナ感染者が増えましたね」と言われて引いてしまった。ついこの間、私が説得できた(覚醒成功した)と思っていた人だったからだ。その時は私の話に耳を傾けてくれていたのに、数ヶ月会わないうちに思考が元に戻ってしまったようだ。それどころか「そんなテレビの報道は嘘ばかりだ」と私が言うと、いきなり話題転換されてしまった。つまりは、「その話はもう信じない」という意思表示に他ならない。

だったら、見込みのあると思える人にのみ、こちらの真意を伝えた方がよほどいい。こちらも労力や氣力、時間を奪われずに済む。

見込みのある人というのは、日々のコロナやワクチンに不安に感じながら、SNSで自主的に情報を漁っている人だ。だからヤバい情報を拡散するだけでも、全く縁のない知らない誰かに氣づきを与えることになると思う。

うちの保育園の先生達は助からないかもしれない。運が良ければ助かるかもしれない。私は見殺しにする。少なくとも、そのことで自分を責めない。自分と子ども以外を護るのは容易ではない。

本当に苦しいのはワクチンで死んだ側じゃない。知ってても止められなかった、残された側なんだ。もうじき旦那も打つ。きっと分かり合えないまま、時だけが過ぎる。

今が第二次世界大戦中だったらな。空から降ってくるのは焼夷弾でしかないし、それは脅威だと誰もが認める存在だし、家族や周りの人たちを安全な防空壕へといざなえるのにな。今の状況は、空から降ってくるのはタダのハリボテ(コロナ)でしかなく、安全な防空壕(ワクチン)に見えるそれこそが危険な受け皿だということすら、分かる人にしか分からない。伝えようにも伝わらない。

その焼夷弾は、焼夷弾じゃないよ。その防空壕は、防空壕なんかじゃないよ。

こんな氣のふれた世界でも、私は目を逸らさず、強く生きていきたい。強く生きたこの記憶を、次の世代に伝えたい。