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三浦海岸

家族で横浜にある八景島シーパラダイスに行った。
雨でも楽しめる場所、それは水族館である。
熱帯魚やエイ、ウミガメ、クラゲの水槽を楽しみ、イルカ達のショーを楽しんだ。
雨が上がった夕方には、南下して三浦半島へ向かい、美味しい寿司屋に寄って、舌鼓をうった。

帰宅しようとしたら、我が子が海で遊びたいと駄々をこねる。
子は生まれつき、わりと酷い中耳炎があり、海水浴をさせたことはない。
まだ日没まで時間もあるし、海辺を散歩するくらいならと、付き合ってやることにした。

寿司屋からすぐ先に行ったところに、三浦海岸があった。
それも、ぼちぼち白い砂浜と、寄せては返す波が、夕日を浴びてきらきらと輝いている。

雅やかな情景に、私はにわかに興奮してきた。
子どもの遊びに付き合うとか、大人は見守り役だとか、もうそういう常識はどうでもいい。

深く考えるな。
波はすぐそこにある。

私はズボンの裾を折り曲げ、靴下と靴を脱ぎ、裸足になった。
我が子も追従した。
頑なに脱ごうとしない野暮な旦那は置いてきぼりにして、私は波をめがけて疾走した。
後ろに子どもが付いてきているかすら、確認しなかった。

波は50cmくらいの高さで、わりと威勢よく寄せてきた。
ふくらはぎまでまくったズボンの裾は派手に濡れたが、そんなことは重要ではない。

波に向かって駆けては止まって、止まっては駆けてを繰り返した。
バカみたいに手をバンザイして、ワーワー言いながら駆け回るのは、なんと愉快なのだろう。

生まれて始めて浜遊びを体験する我が子も、大いにはしゃいでいた。
波が引いていくと追いかけるのに、波が押し寄せてくると喜びの奇声を上げて逃げ回る。
波はさながら、完璧な子守役だった。

私は少しの間、駆け回るのをやめて、波がちょうど足首につかるポイントで立ち止まった。
波が寄せて返すと、自分の足が接地している部分の砂をさらっていく。
そのとき、足指の隙間から砂がさらわれていき、堆積する砂が目減りしていく感触がたまらなく心地良かった。
ちょっとした足裏マッサージのようである。
水温は適度に温かく、ずっと足をつけていても冷たくなかった。

それから子と一緒に棒切れを拾って、砂浜に絵を描いた。
アンパンマンを描いてと言われたので描いてやる。
さらに注文どおり、バイキンマンとドキンちゃんも描いた。
そのうち子はお絵描きから興味が失せて、貝殻拾いに夢中になった。
旦那がそれに付き合いだしたので、私は一人で好きなものを書くことにした。

”ころな こわい”

ザーン。波が押し寄せて、文字を消していった。

”わくちん あんぜん”

ザーン。またしても消していった。

私は無言で笑いながら、世間の妄言をあれこれ書いてやった。
書いても書いてもザーン、ザーンと波が消していく。
自然の力が消してゆく。
まるでこれは、平家物語の冒頭そのものではないか。


 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
 たけき者も遂にはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。


楽しかった。
本当に楽しかった。
別に誰かを傷つけることもない。
私が辛くなることもない。
ここに、私の思いを昇華できる場所があった。
ここが今、追い求めていた場所だった。

他愛もない遊びだ。
なのに、こんな遊びを通して、自分の命を洗濯しているのが感覚的に理解できた。
命、というより、魂、というべきか。

今日、今この瞬間、私は生きてる。
家族と、生きてる。
夫は今にもワクチンを打って死んでしまうかもしれない。
我が子はシェディングの被害に遭うかもしれない。

だけど、私が今この瞬間を楽しむことで、英氣を養っている。
二人を護れる氣がする。
氣のせいでも構わない。

我が子は腰まで濡れてしまったのが怖かったらしく、波に入ろうとしなくなった。
私はズボンの濡れ具合がどんどん上部へ浸透し、あわやパンツまで濡れる手前で引き上げた。

旦那が近くのコンビニで水を買ってきて、駐車場で私たち二人の砂を洗い流してくれた。

「なんで海に入らなかったの?私なんか、全力で楽しんじゃったのに」
下半身はパンツ一丁という変態じみた格好で、私は車の後部座席から、運転席に座っている旦那に話しかけた。
旦那は、海水でベトベトになると面倒だからと言っていたが、ルームミラーごしに笑顔が見えた。
久しぶりに、寛いだ顔で笑う旦那を見たような氣がした。

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