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文化戦争に備えて日本語の引き出しを増やす

もふにゃんJrさんからまたまた面白い記事が出稿される。


「ここでの文化は、本当に様々な要素を内包しています。

治安、モラル、知名度、メディア、教育、技術、サイバー空間、情報、知識、好感度、伝統、音楽、交流、噂、芸術、医療、アニメ、漫画、小説、ドラマ、映画、宗教、知的財産・・・他にも無数の要素があります。

それらは全て一国家、一民族の文化を形成するものであり、今後の世界大戦では、この文化における戦争が激化します。」


なるほどー、武力戦争ではなく文化戦争か。もう既に起きてるよね。人口を減らすために核兵器使うんじゃなくて、情報を使う。法律で縛らず、モラルに訴えかける。「いかに敵国民を洗脳できたか」が勝敗の鍵を握るんだと思う。

今の戦争が支配層対被支配層だという対立構図だとした場合、私はど素人なりにどうすればいいのか考えてみた。

支配層は支配し切れてない部分を支配したいし、服従しない奴は粛清したいし、すでに服従してる奴にはさらなる服従を強いると思う。

だから被支配層はまず、服従しているフリをしていればいいと思う。そして、テレビもラジオもPCも消してこの国の空氣、大地を感じて、頭ん中を一度リセットしてみたらいいと思う。晴れた日の朝の、蒼くて清浄な空氣とか。昼間の明るくて突き抜けるような、輝きとか。日暮れ前の生ぬるい、ゆるんだ氣配とか。闇夜の深い深い静けさとか。

それが済んだら、いざ、学びのときである。

私はライターだからそれなりに文字に敏感で、日常会話の中で日本語の語彙力、特に形容詞が衰退していると感じている。語彙力が欠落していく原因の一つに、現代の日本ではなんでも「凄い」を連呼する傾向があると思っている。

「凄い」はもともと肯定的に使われる言葉ではない。「すさまじい、酷いもの」といった否定的なニュアンスで使われてきた言葉だ。だから「凄いブス」「凄い雷」はともかく「凄い美人」「凄いいい天氣」は誤用だ。誤用なのに誤用ではない世の中になってきている。実際に私も「これ凄く美味しいよ」などと発言してしまう。「とても美味しい」が正しいのに、なぜ自分は使わないのか。理由はおそらく、とても、より、凄い、のほうが濁音が入ることにより語感にパンチが効いてて、威力があるように感じるからだと思う。同じ理由で「ヤバい」が多用されてるのだと想像する。

これを正すためにはもっと形容詞の引き出しを増やすことが必要だ。幸いにも国語辞典という便利なものがある。これをめくっていくだけでも形容詞の引き出しは増える。WEB上の国語辞典はお勧めしない。ただ、あえて言うなら、以下のサイトはお勧めする。類義語や、それに連想する言葉を沢山弾き出してくれる。


WEB検索は、特定の単語を調べるには便利だけれど、単語との偶然の出会いは発生しない。紙媒体の辞書をぱらぱらめくりながら「へえ、こんな言葉あるのか」と眺める無駄こそ文化だ。知性の木の枝を増やし、さらにはその枝を太い幹へ昇華させることに繋がるのではないか。


私が小学三年生のとき、学校で辞書の引き方を教わった。その頃は、悪口を調べるのが好きだったので、かなり色んな悪口を知っていた。バカは馬鹿、と書くのか、なるほど。馬と鹿という生き物はそんなに馬鹿なのかな?と考えたり。アホは阿呆、と書くのか、なるほど。呆は呆然とする、の呆だから、口を開けてぼんやりしてる様子が頭悪そうだからそんな字をあてがったのかな、と想像したり。

またある時には、母に買ってもらったピカピカの自分の辞書よりも、茶の間の仏壇の引き出しに入っている辞書や、父の本棚にある辞書の方が、内容がよほど面白いことにも氣づいた。昔の書物は規制が緩かったことも知った。「とうへんぼく(唐変木)」「おたんちん」「おかちめんこ」「ぼけなす」「うすのろ」「みそっかす」「ぼんくら」などといった悪口、ここには書けない差別用語までが沢山載っていた。辞書には癖があり、出版社によって解釈も異なり、子どもながらに「この出版社はつまらん」「この出版社はユーモアのセンスがある」などと感じていた。そして覚えた単語を、クラスの男子との喧嘩のときに発してみたものの、相手は何を言われてるのか腑に落ちない様子なのが歯痒かった。ただ、挑発してこちらが有利に戦うことには成功した。悪口の引き出しが多いことは、一つの文化である。

平均的に見て背の高い中国人が、背の低い日本人のことを「小日本人」といってバカにするらしい。これに対して、とある日本人が「日本にはそういう(背だけ高くて役に立たない)人のことを『うどの大木』と表現する言葉がありましてな」とほくそ笑んだというエピソードを小耳に挟んだとき、私は腹を抱えて笑った。日本人とは、実に聡明である。

話を形容詞に戻す。私が子どものときに好きだった遊びの一つに「しいがつく言葉」遊びがあった。末尾に「しい」がつく言葉を言い合っていくだけのゲームだが、これでかなり語彙力がついた。ルールとしては「楽しい」「悲しい」「素晴らしい」など、他の人が言った形容詞は言ってはいけない。それを姉や兄とやっていたら、母が混ざってきた。いきなり「芳しい」だの「神々しい」だの、知らない単語が飛び出してくる。そこで私は言葉の意味を教わった。楽しい学びの時間だった。(私が唐突にマテバシイ(どんぐりの木の一種)と言い出した時には母が吹き出した)

形容詞に限らずだが、言葉の引き出しを増やすだけでも相手の挑発に乗らずに済む。くだらない思想を浸潤させようとしたり、分かりにくい外来語でけむに巻く輩が登場したら、「馬鹿馬鹿しい」「分かりにくい」「センスない」と笑い飛ばしてやればよろしい。取り合わない、同じ土俵で戦おうとしない、一時的に耳に入れてやったとしても、受け入れてやらなければいい。

それどころか、相手の言葉を逆手にとって面白がることもできる。相手の集中力や、戦意を喪失させることだってできる。また、これを面白おかしく学ぶことによって、氣持ちに余裕も生まれる。憎しみを笑いに変換する技術は、私たち日本人ならではの個性(という名の知性)、長所だと思う。氣高い日本人には上質なモノが似合う。なぜなら日本人は、日本語を話すからだ。

国語を学ぼう。もう、楽しい予感しかない。