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一百零八の読み方

空手の型に一百零八という型がある。読み方は、中国語風に、スーパーリンペイもしくはスーパーリンペーと発音する。剛柔流や糸東流に伝承されており、しばしば那覇手の最高の型とも言われる。ところで、これらの発音はいつから始まったのであろうか?

例えば、本部朝基の『私の唐手術』(1932)には、「一百れい八」と書かれている。零の漢字にだけ「れい」とふりがなが振られているが、おそらく全体では「イッピャクレイハチ」と発音するのであろう。つまり、これは中国語の発音ではなく、日本語の発音である。かりに沖縄の方言で発音しても、発音は「イッピャークリーハチ」となる。

そこで、戦前の空手の書籍を調べてみると、一百零八の表記と発音は以下の通りとなる。

・富名腰義珍『琉球拳法唐手』(1922):一百零(れい)八
・富名腰義珍『錬膽護身唐手術』(1925):一百零(れい)八
・本部朝基『沖縄拳法唐手術組手編』(1926):一百零八(発音は不明)
・三木二三郎、高田瑞穂『拳法概説』(1930):一百零八(ペツチュウリン)
・本部朝基『私の唐手術』(1932):一百零(れい)八
・摩文仁賢和『攻防自在護身術空手拳法』(1934年3月5日):一百零八(スーパーリンパイ)
・仲宗根源和『空手研究』(1934年12月5日):壹百〇八(スーパーリンパイ)百歩連(ペツチュウリン)とも云ふ。
・義村朝義『自伝武道記』(1941):ペッチウリン。漢字表記はなし。

船越先生や本部朝基は、イッピャクレイハチと発音していたことが分かる。三木たちは、1929年の夏に沖縄を訪れ、宮城長順にインタビューしている。このとき、宮城先生は一百零八と漢字で書き、ペッチュウリンと発音していたのであろう。義村朝義は東恩納寛量の弟子であるので、やはりペッチュウリンと発音している。

ところが、1934年の摩文仁先生の本から「スーパーリンパイ」という発音が突如登場する。いったい、1929年と1934年の5年間に何があったのであろうか?

以下は筆者の仮説である。

もともと、沖縄には一百零八という型が琉球王国時代から存在した。これは、尚泰王の冊封が無事済んだことを祝って開かれた御茶屋御殿における唐手演武を記載したプログラムからも明らかである。この型の発音はイッピャクレイハチだったのであろう。これとは別に、東恩納寛量がペッチュウリンという型を教えていたが、漢字の表記はなかった。

さて、一百零八とペッチュウリンの2つの型は、よく似ていたか同系統の型だったのかもしれない。そこで、ペッチュウリンに漢字表記がないことを残念に思っていた宮城先生や摩文仁先生は、一百零八と書き、ペッチュウリンと発音するようにした。

ところが、彼らは呉賢貴あるいは別の中国人から「その発音は誤りである」と指摘された。一百零八の中国語の発音は、「スーパーリンパイ」が正しい。そして、ペッチュウリンの漢字表記は「百歩連」が正しい。おそらくこの指摘が1929年と1934年の間に行われたのであろう。

そこで、宮城先生と摩文仁先生は、「スーパーリンパイ」という発音を使い始めた。そして、この発音がのちにスーパーリンペイもしくはスーパーリンペーと変化し一般化した。そして、ペッチュウリンは、スーパーリンパイの「別名」になった。

空手の型は中国から伝来したと言われている。また宮城先生は中国へ現地調査に行くなど、空手の源流への憧憬があった。それゆえ、「型は正しい中国語で発音されるべきだ」という考え方があったのかもしれない。こうした理由で、スーパーリンパイという呼称が使われるようになったのではないだろうか。

冒頭写真:「壹百〇八スーパーリンパイ――摩文仁師範」、仲宗根源和編『空手研究』(1934)より。

出典:
「一百零八の読み方」(アメブロ、2020年1月24日)。


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