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玉城 ー松村宗棍の弟子ー

以前、「松茂良興作の弟子」という記事を書いたことがある。そこで、筆者は従来松茂良興作の弟子されている人物の大半は、実際には戦前の史料からは確認することができず、むしろ戦前の史料から確認できる弟子がその系統図からは抜けているという問題を指摘した。

空手史の場合、口碑こうひ(言い伝え)に頼る部分が大きく、文字史料だけでは証明がむずかしいという問題はある。

しかし、はっきりとした根拠がないにもかかわらず、流派の歴史を潤色したいという思いからか、開祖やその先師が著名な空手家に師事していたと付会する場合もある。さらには他流派の人物を系統図から省きたいという誘惑に駆られる場合もあるかもしれない。

もちろん、弟子であるにも関わらず、そのことを証明する史料が従来知られていなかったり、注目されてこなかったという場合もある。「義村朝真と泊手」で紹介した、松村宗棍に師事していたという「玉城たまぐすく」もその一人である。該当箇所をもう一度引用してみよう(注1)。

17、8歳になると、もう立派な一人前の男として、自他共にゆるされる。その頃から、武士松村に就ついて、本腰になることになった。当時松村翁は齢よわい既に古希を越えていたように記憶している。南苑の御番をつとめておられた。月に5、6回通っていた。いつも兄の朝真ともう一人玉城という兄より1つ2つ上の人が一緒だった。「五十四歩」が主で、クウサンクウを併あわせまなんだ。

上記によると、玉城は義村朝真(1863生)より1つ2つ年上だったというから、1861か62年の生まれだったのであろう。また、松村先生に師事していた時期は明治15(1882)、16(1883)年頃である。しかし、手がかりはこれだけである。では、玉城とはいったい誰だったのであろうか。以下は筆者の推測である。

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