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国吉のチソーチン

これまで、ソーチンとシソーチンは同系統の型であること、またシソーチンはもともとは(東恩納派の)ソーチンと呼ばれていたということを論じてきた。さて、これらの型と似た名称の型がもうひとつある。それは第一回古武道発表会(1961)で、中村平三郎が演武した「国吉のチソーチン」である。

中村平三郎(68歳)
チソーチン
明治二十六年本部町字渡久地に生まれる。十七歳のころから空手に親しみ、今日まで精神の修養と健康法としてつづけてきた。発表会ではチソーチンの型を演武するが、これは学生時代に名護町の武士国吉(通称)から手ほどきをうけたという。師範時代には屋部健通先生の指導をうけた(注)。

武士国吉というのは、国吉真吉のことである。久茂地村(現・那覇市久茂地)の出身で、久茂地の山原国吉とも呼ばれた。山原(やんばる)というのは、後年、山原地方の名護に転居したからである。沖縄拳法の中村茂も国吉真吉の弟子である。

中村茂先生は国吉からニーセーシを習ったそうだが、中村平三郎氏はチソーチンを習ったという。上記の新聞記事は以前から知られていたが、このチソーチンがどういう型か長らく不明であった。しかし、最近、文武館館長の仲本守先生によって、YouTubeに当時の動画が公開された。

これを見ると、最初の三戦風の動作は、シソーチンのような開手ではなく、新垣派のソーチンのような握拳で行っている。途中の「髷隠し」のような動作もソーチンと共通しているが、異なっている箇所も多い。ただ全体的には、シソーチンよりは新垣派のソーチンに近いという印象を受ける。

『沖縄空手古武道事典』によると、国吉真吉は東恩納寛量とも交流があったようだが、少なくとも東恩納先生や宮城先生が国吉から「チソーチン」を習ったということはなさそうである。

『沖縄空手古武道事典』によると、国吉真吉は泉崎の崎山に師事したという。すると、アソンの系統ということになる。ソーチン、シソーチン、チソーチン。これらの型は、アソンから伝わったものが分岐したのであろうか。

もう一つ興味深い点は、首里崎山の御茶屋御殿で演じられた「ちしやうきん」との関係である。従来、このちしやうきんが剛柔流のシソーチンになったという説を唱える向きもあったが、名称は国吉のチソーチンのほうが近い。そして、前回見たようにシソーチンはある時期までソーチンと呼ばれていた。それゆえ、ちしやうきん=シソーチン説は再考が必要であろう。

注 『沖縄タイムス』1961年11月16日。

出典:
「国吉のチソーチン」(アメブロ、2020年9月6日)。

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