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ナイハンチの分解?

たまたまX(旧Twitter)で見かけた中国の清朝時代の弓術の練習風景。この写真を見て、立ち方がナイハンチ立ちにそっくりではないかと思った。

古流のナイハンチ立ちは、もともと馬にまたがるような立ち方と言われる。本部朝基は『私の唐手術』(1932)で、ナイハンチ立ちを、

足は乗馬する如く、両脚の外側より中の方へ、力を締め込むような心持ちで踏み張る。

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と解説している。そう言えば、船越先生もナイハンチを最初「騎馬立」と改名し、のちにさらに「鉄騎」と改名した。松濤館ではいまでもナイハンチ立ちのことを騎馬立ちと呼んでいるようである。

たしかに上の右写真の立ち方を見ると、ナイハンチは中国の乗馬術や馬上武術と関係があるのではないかと思う。清朝の支配民族である満州族は、弓馬術を得意とした。歴代皇帝も弓馬術を得意とし、下の絵のように、乾隆帝(1711-1799)もいくつもの騎射図を描かせている。

ジュゼッペ・カスティリオーネ(中国名、郎世寧)「乾隆帝射猟図」。

ナイハンチ立ちは四股立ちにも似ているが、本部流では、つま先は外八字ではなく正面に、――したがって両足は平行になるように立つ点が四股立ちと異なる。また、腰も上の左写真のように、それほど深く落とさない。

すると、やはりナイハンチは、北京に留学した官生(官費留学生)の誰か――唐手佐久川ではないにしても――が習得してきた、(満州族と関わりのある)北派武術の型だったのであろうか? 

三戦立ちは船の上という不安定な場所での立ち方と言われているが、これに出典はあるのだろうか。三戦立ちが船上で、ナイハンチ立ちが馬上なら随分と武術の起源や想定する戦場が異なることになる。

中国には「南船北馬」という言葉があるから、福建省の武術が船と関係しているというのはこじつけではないのかもしれない。同様に、ナイハンチが馬と関係しているのなら北方の武術が起源という推測もあながちこじつけではないのかもしれない。

参考サイト

出典:
「ナイハンチの分解?」(アメブロ、2017年11月14日)。

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