見出し画像

古流組手「掛け手」の戦前戦後の記録

たしか2015年頃だったと思う。本部流の公式ウェブサイトに掛け手かけで(方音でカキディー)について、紹介する記事を掲載した。掛け手とは古流の自由組手のことである。前腕部を互いに掛け合った状態からはじめるので、この名称で呼ばれる。掛け組手ともいう。

掛け手

本部朝基は掛け手の稽古を好んだ。掛け手を稽古すると「目が利くようになる」と言っていた。掛け手は自由な攻防なので、反射神経というか、臨機応変の能力を養うことができる。これは一人稽古の巻き藁突きや、予め決まった動作を繰り返す約束組手ではなかなか得られない。

また、掛け手のポジションから行う試合を「掛け試し」と言った。掛け試しの本来の意味は「掛け手で行う試し(試合)」である。戦後、この意味は一般には忘れ去れてしまった。

さて、掛け手は筆者が見るところ、本部流にしか残っていないようである。それで、上記の記事を発表当時、さまざまな反応があった。多くは好意的なものであったが、中には「掛け手なんて沖縄でも聞いたことがない」、「戦後何十年もたって突然掛け手があったとか信じられるか」、「本部流の捏造ではないか」といった批判的意見もあった。

小さな流派に伝わる技法なので、広く知られていないのはやむを得ないかもしれない。しかし、最近発表したわけではなく、たとえば、『月刊空手道』2001年12月号の本部流の特集でも掛け手は紹介されている。

『月刊空手道』2001年12月号、福昌堂。

そこには「カケデ」の見出しのあと、以下のような解説がなされている。

これは互いの腕を重なり合わせ、そこから互いに攻撃し合い、防御する練習法だ。(中略)よく本部朝基も訪問者の「こういう場合はどうするのですか?」という質問に、このカケデを使って答えていたそうだ。

本部朝基は普段から型の分解等の質問には掛け手を使って答えていたという逸話は取材時に宗家(本部朝正)が語ったものだが、昔の空手家が型と組手のつながりをどのように理解していたのかを知る上で貴重な証言である。

また、一般には公開していないが宗家と本部朝基の弟子の丸川謙二氏が掛け手をする映像もある。

丸川謙二と本部朝正、東京丸川邸、1992年5月3日

見えにくいが、左下に「1992 5 3」と日付表示あり、この映像が30年以上前に撮影されたものであることがわかる。映像の中で、本部朝基がある独特の身体操作をしていた話が実際の動きとともに解説されている。古流空手にそんな動きがあったのか?という、写真からはわからない動作である。こうした解説は直接師事した者からしか聞けない貴重なものである。

また、中田瑞彦『本部朝基先生語録』(1978)では、「かけ組手」の名称で以下のように紹介されている。

「かけ組手」は一種の自由組手で、何しろ、互いに前手をかけ合っているので、間合いは至近、何処へ来るか判らない相手の攻めを防ぐのは、なかなか熟達を要する。勿論、防手は攻手に瞬変する。
本部先生は修業時代、盛んにその師や同門の連中と、この「かけ組手」をやられた由で、当時の唐手の稽古は庭だの人気のない戸外などで専らやったものらしく、雨が降ると、家の中で座ったまま、この「掛け組手」を盛んにやられたという。

中田氏は大道館の正規の弟子ではなかったが、本部朝基を敬愛してよく訪ねていたので貴重な証言を残している。上記のいう師匠とは首里の松村宗棍や佐久間(佐久真)親雲上ぺーちん、泊の松茂良興作、同門とは兄の本部朝勇や親友の屋部憲通等であろう。当然だが組手は一人では稽古できないから「相手」が存在するわけである。

また、中田氏は沖縄出身のある「有名な人物」は、「『掛け手』などやったことがなかったのではないか、と私は考えている」と付記している。

筆者は別にその人物に限らず、本部朝基以降の沖縄の空手家は基本的に掛け手はまったく知らないか、話にだけは聞いて知っていた程度だったのではないかと考えている。もちろん本部や屋部の弟子たちは除くが。

また、本部朝基より上の世代でも、型の修業を一通り終えた者だけが本格的に組手を習うことができたので、当然その域にまで達しなかった者は掛け手を教わらなかったであろう。

さて、屋部先生は『拳法概説』(1930)のインタビューで、本部朝基とは親友で長年実戦を主眼に稽古してきたと語っている。また、ブラジルに移民した屋部先生の高弟の屋比久孟徳の生徒が掛け手をしている写真を数年前に屋比久先生の後裔の方からいただいた。それゆえ、屋部先生も一部の高弟には掛け手を教えていたのであろう。

ブラジル、ミラカトゥ、1950年頃

最後に戦前出版された摩文仁賢和・仲宗根源和『攻防拳法 空手道入門』(1938)に掛け手が紹介されている。

掛け手(第41図参照)とは、敵味方が互いに表小手おもてこて引掛ひきかけて(手首の拇指おやゆびの下のところを)丁度剣道で言えば太刀さき三寸を交えた構えと同じで、相手がどう変化するか知れないのです。沖縄では掛け試しと称して、互いに「引っ掛けて」(即ち掛け手の構えに拳を交えて)よく技を試しあったもので、ただ引っ掛けてみただけで互いに相手の腕前がわかるとされたものです。引っ掛けて見て互角だと思えば「行くぞ」とか「いいか」とか声をかけて技を争います。

117頁。原文は旧字旧仮名遣い。
掛け試し。出典:『空手道入門』117頁

この本は摩文仁先生と仲宗根源和との「共著」となっているが、実際の執筆者は仲宗根で、摩文仁先生は監修者という立場であった。仲宗根は、この本以前に出版した『空手研究』で、本部朝基にインタビューした記事を載せているので、おそらくそのとき上記の話を本部朝基から聞いたのであろう。このインタビューは前回の「松村宗棍のナイハンチ」でも紹介した。

上記では、掛け試しは掛け手のスタイルで行われたとイラスト付きで紹介さされている。最後に大正15年(1926)に出版された『沖縄拳法唐手術組手編』の掛け手の写真を紹介する。

このように本部朝基は最初の著書で掛け手を写真つきで紹介していた。したがって、掛け手も掛け試しもすでに戦前紹介されていたのである。

屋部憲通は「型から組手が生まれたのではない。組手から型が生まれたのだ」と語った。型は、昔の武術家が組手から得た智慧ちえを結晶化したものである。それゆえ、型の意味(分解)を知るためには、その型が当時どういう組手法のもとで誕生したのかを知る必要がある。

さて、ときどきFacebookなどで剛柔流のカキエと本部流の掛け手は同一か、という質問を受けることがある。

カキエは沖縄の剛柔流の一部の系統に伝わる稽古法だが、剛柔流で広く行われている稽古法ではない。それゆえ、宮城先生がカキエを教えていたのかについて、剛柔流内部でも議論があると聞く。

果たして実際はどうだったのであろうか。以下で資料を紹介しながら掛け手とカキエの関係を考察してみたい。

ここから先は

3,397字 / 3画像

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?