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約束組手の誕生と古流組手の断絶

空手の約束組手というのは、日本武道でいう(相対)形のことである。たとえば、「Aが右手で突くと、Bはそれを左手で上げ受けしたあと、右手で突く」といった動作である。あらかじめ決められた動作を反復する練習である。対義語は自由組手である。

さて、空手の約束組手はいつ誕生したのだろうか。記録として残っている一番古いものは、花城長茂が明治38年(1905)に、中学生向けに作ったものである。

「明治卅八(38)年八月 空手組手 花城長茂」(『空手道大観』より)

ただこの約束組手は現存していないので、その全貌は分からない。そのうちの一部は『空手道大観』(1938)に掲載の花城先生の手書きノートの写真から解読されて、『沖縄空手古武道事典』などに掲載されている。

それを読むと、「号令とともに、甲が右拳を突くと、乙が一歩下がって左手で甲の右手首を掴む……」といった内容である。「掴み手」の技法は古流を思わせるが、号令とともに集団で同じ動作をするというのは、西洋から輸入された軍事訓練の影響を思わせる。

周知のように花城先生は屋部憲通とともに陸軍教導団に入団した、沖縄最初の陸軍軍人の一人であった。おそらく軍で習った軍事訓練の様式を参考にしながら、約束組手を考案したのであろう。

つまり、沖縄で最初に誕生した約束組手は西洋由来の軍事訓練と空手との融合であった。おそらく約束組手を通じて集団行動の重要性を学ばせ、規律正しい、将来の軍人となりうる国家にとって有為な人材の育成をも兼ねたものであったに違いない。

したがって、実戦的な格闘技としての、いわば「武術としての空手」を学ばせるというよりも、軍人に必要とされる基礎体力、規律、命令服従の精神を学ばせるために空手の技を使って創作したというほうが正しいかもしれない。

それゆえ、近代の組手の根底にはこうした西洋式軍事訓練の影響が当初からあったということを認識しなければならない。それは決して琉球王国時代から受け継がれた伝統的な組手の直線的な発展ではなかった。

この花城先生の約束組手の次に古いのは、本部朝基が大正15年(1926)に発表した十二本組手である(注)。この組手は本部朝基が師より学んだ古来の組手に加えて、長年の修業を通じて独自に編み出したものを加えたものである。この経緯について、本部朝基は次のように書き記している。

とりあえず唐手術の中軸とも云うべき組手を自分が過去において学び得た経験、古老の記憶、伝説を経緯としてここに編纂することに致しました。

『沖縄拳法唐手術組手編』3頁

「古老」が誰を意味するのか明らかではないが、おそらく組手を教わった松村宗棍、佐久間親雲上、松茂良興作といった諸先生のことであろう。そうした先生から受け継がれた古来の組手をもとに十二本組手を創作した、と述べているわけである。

では、花城先生以前に約束組手は沖縄に存在していたのだろうか。これについて、本部朝基は次のように述べている。

もっとも組手は琉球においては古来より行われてきたのであるが、いまだ制定した型といものはなく、なお文献にも残っていないのである。

同上11頁

これを読むと、花城先生以前に約束組手が存在したことはなさそうである。また「組手書」といったものもなかった。なお、本部朝基は花城先生が中学生向けに作った約束組手の存在は知らなかっただろうから、この十二本組手以前に約束組手はなかったはずである、と考えていたようである。

いわば、沖縄古来の組手からはじめて約束組手を創作したのは自分だという自負があったということである。しかし、この組手は普及せず、その後の空手史において普及したのは、本土の若者や学生たちが型から技を抽出して作った組手であった。

それは花城先生の組手の中にあった掴み手を使う組手とも違う、たとえば「上げ受け・逆突き」に代表されるような、もっと単純化された組手であった。もちろん花城先生や屋部先生がもたらした軍事訓練の影響は明治末期から大正時代の沖縄で普及していたであろうから、その間接的な影響は本土にも受け継がれと見るべきである。そうした影響を土台として、本土で組手が創作されたということである。しかし、それは古流組手を直接受け継いだものではなく、むしろその断絶あるい衰退をもたらすこととなった。

注:屋部憲通も沖縄県師範学校の生徒向けに約束組手を作っていた可能性はあるが、明確な資料は存在しない。

出典:
「約束組手の誕生」(アメブロ、2019年3月23日)。





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