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なぜ屋部憲通はピンアンを否定したのか

以前、儀間真謹ぎましんきん(1896 - 1989)がピンアンに対する屋部憲通の評価について語った箇所を引用したことがある。もう一度以下に引用する。

藤原 ところで八代六郎少将が那覇に上陸した当時は、まだ、糸洲安恒師範の創作した『ピンアン』の形が発表(明治37年4月)されて間もない頃ですから、あまり広く普及していたわけではないでしょう。
儀間 いや、那覇市内の尋常小学校生徒の間では、ある程度まで普及していたと思います。しかし、師範学校の場合は、稽古の主体が『ナイハンチ』でしたから、『ピンアン』の形は、それに関心のある者だけが随意にやっていたにすぎないのです。屋部憲通師範の指導方針も、『ピンアン』の稽古をやる時間があるなら、『クーシャンクー』をやりなさいというものでしたから、富名腰師範の場合も、東京に出てくる直前頃までは、おそらくやっていなかったはずです。
藤原 どうも、そのようです。富名腰師範に『ピンアン』の形を教授したのは、唐手研究会をリードしていた摩文仁賢和師範だと聞いております。しかし、富名腰師範の場合は、安里安恒翁から、『クーシャンクー』の形を仕込まれておりますから、『ピンアン』の習得には、それほど苦労しなかったと思います。

儀間真謹・藤原稜三『対談 近代空手道の歴史を語る』86頁

儀間氏は、沖縄県師範学校出身で、在学中に糸洲安恒と屋部憲通に師事した。のちに東京商科大学(現一橋大学)に入学し、大正11年(1922)には船越義珍と一緒に講道館で空手(当時は唐手)の演武もしている。その儀間氏によると、屋部先生は「ピンアンを稽古するくらいならクーサンクーをやりなさい」という指導方針だったという。

ピンアンは糸洲先生の創作型である。糸洲先生は、このシリーズを初心者が空手の基礎を学ぶために創ったと考えられている。それをどうして糸洲先生の高弟の屋部先生は否定したのであろうか。

屋部先生はたしかに糸洲先生の弟子ではあるが、同時に松村宗棍の弟子でもあった。筆者は以前屋部宅を訪ねて屋部先生の孫の屋部憲次郎氏にお目に掛かったことがあるが、そのとき「この家の隣は松村先生の住居でした」と教えられた。下の写真がその松村宗棍宅跡である。

松村宗棍宅跡

それゆえ、屋部先生は幼少の頃より松村先生からも指導を受けていた。さて、クーサンクーは、松村先生が教えていたと証明できる3つの型の1つである。おそらく屋部先生は、松村先生からクーサンクーを教わったのであろう。下の動画は屋部先生の弟子の屋比久孟徳が伝えた「屋部のクーサンクー」である。

これを見ると、糸洲のクーサンクー(大)と異なる点がいくつかある。たとえば、屋部のクーサンクーは立ち方がナイハンチ立ちで、後半の二段蹴りのあとに下段槌打ちを行う。また前半の貫手も、縦貫手ではなく、手のひらを下に向けた貫手である。

ではこの「屋部のクーサンクー」にあって、糸洲のピンアンにないものは何であろうか? 槌打ちはピンアン初段で用いる流会派はあるし、貫手も全体から見れば数は多くはないがピンアンに含まれる。強いてあげるなら、立ち方の相違であろうか。ピンアンシリーズでは猫足立ちが頻繁に用いられる。これは糸洲のクーサンクーでもそうである。

あるいは、個別の技ではなく、ピンアンシリーズを貫く体育目的を強調した「思想」であろうか。それに屋部先生が違和感を覚えていたということであろうか。

あるいはピンアンが作られた明治37年(1904)のときには屋部先生は30代半ばで、いまさら新しい型を習得したり教えたりするのは気が進まず、若年の頃から親しんだクーサンクーのほうを好んだという「慣れの問題」だったのであろうか。

しかし、屋部先生が若年の頃より糸洲先生に師事していたのならば、そのとき存在したであろうピンアンの原型「チャンナン」は習っていた可能性が高い。本部朝基によると、チャンナンとピンアンは少し違っていたというが大略は似ていたのであろう。すると、チャンナンを習ってピンアンは教えたくないというのは不可解である。

実は儀間氏が、屋部先生はピンアンを「良質な形」とは見なしていなかったと証言している一文がある(注)。つまり、屋部先生は「慣れの問題」ではなく、内容的にピンアンを優れた型とは見なしていなかったというのである。

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