ぼ喜多百合過激派へのアンチテーゼ【関係性考察】【ぼっち・ざ・ろっく!】

ぼ喜多が好きじゃない

ごめんよ。好きじゃないんだ。みんなは好きなんだろう。俺だけかもしれない。でも俺が好きじゃない理由を知ってほしいんだ。俺がぼっちざろっくの百合が好きじゃない理由を。

ぼ喜多にまつわる壮大な勘違い

俺がぼざろ二次創作系でも百合、特にぼ喜多があまり好きじゃないにはしっかり裏付けがある。一言で言えば解釈違いだ。いや、勘違いと言っていい。
なんで勘違いかというと、俺は俺の解釈が割と正しいと思っているからだ。なんでそう思っているかっていうと、原作をそのまま読んだらシンプルにたどり着いた結論だからだ。
俺が俺の正しさを全面的にこれを読んでいるあなたたちに押し付け、納得させるためには、結束バンドそれぞれの関係性について掘り下げる必要がある。

結束バンド関係性掘り下げ

俺は俺の思っていることを知ってほしいが、俺は俺の思っていることを伝えるのが下手だ。だからお得意の箇条書きをやる。下手でも6割は伝わるからだ。

ぼっちと虹夏

結束バンドの真の始まりという意味では、ぼっちと虹夏の出会いがすべての始まりだろう。
俺はこの2人の関係性を表すならば「夢への共犯者」だと思う。
「パートナー」でもいいと思うが俺はスト魔女が好きだからで特に意味はない。
虹夏の「夢」は作中でも明言されていて、今更特段難しいこともない。過去編の「星に手向けるあいの花」でそのオリジンもほぼ明らかとなった。

虹夏の「お姉ちゃんのぶんまで人気のバンドになること、お姉ちゃんのライブハウスをもっともっと有名にすること」という本当の夢をかなえるため、結束バンドを結成した。

一方、ぼっちの夢とは何か?
虹夏が本当の夢を語るシーンで「ギタリストとしてみんなの大切な結束バンドを最高のバンドにすること」と言っているが、それはぼっちが「今なんでバンドをしているか」と聞かれた答えで、夢と言ったら違うかもしれない。
「さっさと売れて高校中退」はおそらくマジだが、これも「夢」というか、選択肢のない己の将来への不安からくる強迫観念だろう。
ということでぼっちの心情描写から掘り下げていくしかないのだが、「今なんでバンドをしているか」はわかっているので、「今までなんでギターを続けてきたか」を掘り下げると、自分的には案外あっさり答えが出た。

ぼっちがギターを始めた動機、「バンドなら自分みたいな陰キャでも輝けるから」。
中学3年間毎日6時間練習に費やしたモチベは「文化祭ライブでちやほやされたいから」。
なぜ動画投稿を始め継続しているのか…は、特に言及がないので分からないのだが、おそらく「ちやほやされたいから」ではない。というのも1話冒頭の回想シーンで

「最近は動画サイトでも再生数けっこうあるしうまいってコメントばかり…」「そろそろ…人前で披露してもいいよね…?友達一人もいないけど…」

芳文社 ぼっち・ざ・ろっく!1巻

から察するに、動画投稿は初心者時期から続けている。弾いてみたとか、上手くても継続投稿してないと再生数全然伸びないからだ。そしてこの時点でギター歴2年。チャンネルも家族共有アカウントなので、練習記録を乗せる程度の動機だったのかもしれない。そして何気にネット越しに演奏を見せることを「人前で披露する」にカウントしてない。そしてネット上で有名人となり、ギターヒーローを名乗り虚言癖を重ねていっている点から、動画投稿の継続動機は「尊大な自尊心の維持」と「承認欲求の満足」だろう。

早速文章にまとまりがないが、要するに「ちやほやされたい」がすべての様だ。最初から本人がそう言ってるしそりゃそうだ。だが、これらは全て、ネガティブ思考の権化であるぼっちの言葉を借りた場合の表現である。察するに、ぼっちの夢は「チヤホヤされたい」ことそのものではあるのだが、一般的には違った意味合いになるのだろうと思われる。

例えば、「みんなのヒーローになる」、とか。
なんでバンドで輝きたいのか?テレビで偶然見た人気のバンドマンから「陰キャでも輝ける(=ヒーローになれる)」と知ったから。
バンドをすることでヒーローになれるのなら、中学校という狭い世界で、文化祭ライブが一番現実的な目標だったから。
そして動画投稿者としての活動名義は「ギターヒーロー」。演じるはみんなのヒーローに相応しい、イケイケな陽キャの姿。

原作1巻最終話、アニメ8話で、ぼっちは虹夏にとっての「ヒーロー」となった。たった一人のためのヒーローだが、それでも彼女は「ギタリストとして」、「みんなの大切な結束バンドを最高のバンドにする」と言った。
虹夏の夢を叶え、各々が結束バンドに託した大切な思いを守ることで、後藤ひとりの夢は叶う。

虹夏とぼっちの関係性は、お互いの夢でお互いを支えあう、唯一無二の「共犯者」である。

リョウとぼっち

さっきは熱が入りすぎて気持ち悪い口調になった。オタクが気持ち悪いのは世の常である。
ぼ虹同様、リョウとぼっちの関係性を表すとするならば、「同族ゆえの理解者」だろう。

これに関しては特に言うこともないと思う。正直アニメ1期の段階では特に語ることもないし、原作でも特段掘り下げはない。どんどん陰キャ仲が深まっているぐらいだった。

…どっちかというとリョウ喜多のほうが語れる。ただぼっちと山田は結束バンド内でも音楽理解が深い(結束バンド内では小学生のころからドラムしてる虹夏が最も歴が深いが、物欲の山田と狂喜の後藤がやっぱり光っている。)ので、描写外で結構交流があると思われる。というか作詞作曲は基本この2人だし。

ただ、リョウが居ないとぼっちは割と早急に結束バンドの逃げたギター2号となっていたと思われるので、功績はデカい。シデロスの陰キャリーダーを除けば性格面での同族は乏しく、理解者に関してはほぼリョウ一択なので、言外の功績は割と一番大きいとは思う。

最初期のかわいい路線リョウは結構好き。あと喉からちよももの声がすると思っていたけど他人だった。

喜多とぼっち

これが本編だよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

喜多とぼっちの関係性を表すならば「自分にないものを持っているお互いに対し、憧れと恐れを抱きながらも、不器用に歩み寄り合い生まれた唯一無二な友情」だろう。

長いって?それぐらい複雑な味がするんだよ。

ぼっちの「持っていないもの」。簡潔にグッサリと言ってしまえば「社交性」だろう。あと賢さ

ぼっちが社交性に憧れてるのは言うまでもない…と言いたいが確証はない。物証がないので。
状況証拠だけで言えば、ぼっちは「世の中を堂々と大手を振って歩くには明るくなければいけない」といった強迫観念があったり(リョウとご飯に行ったときは「あっ、へっ、へい、大将やってる?」とか言った)している。

一方、喜多の持っていないもの。アニメ勢にはちょっとネタバレになるが、喜多はぼっちと違って自分の言葉で分かりやすく端的に表現しており、「普通じゃない道」である。

…でも何かが特別秀でてるわけでもないし ほんとふつーっていうか
楽しいんだけど 自分の人生何となく味気ないなってぼんやり思ってて…
…それと同時に普通じゃない道を歩いているのは羨ましいなって思って

ぼっち・ざ・ろっく!3巻より

それこそ登場時から作中での態度に至るまで、徹底的に「特別なこと」に惹かれている。(虹夏には「みんなで何かをする事に憧れている」と言われている)

.......…

(「普通じゃない生活」に憧れて、周りに合わせる普段の彼女なら絶対やらないであろう、リョウを追っかけ嘘をつきバンドに入るなんて行動力を見せるも、そこで結局後ろめたさから一歩引いて逃げを選択してしまうところとか、結束バンドを本気で有名にする夢を追っかけている虹夏に動機を見抜かれていたり、本物の「普通じゃない」リョウとぼっちには歯牙にもかけられていない存在なのがガチすぎてつらいよね。俺知ってるよ喜多ちゃんみたいな女の子。高専とか工業高校に居る、万人に人当たりがよくサブカルに理解があるせいでアウェーな環境でもなんだかんだ上手くやれるが、ある意味究極のパンピー適正の持ち主なので、異常者集団の中で楽しくやれるけど苦しみ続けるタイプの女の子だよ。)

.......…

ごめん意識飛んでた。

まぁ、こんな長々と書かなくても「自分の唯一持てる音楽という手段で人気者になりたい陰キャ」と「なんでもできるが、敢えて音楽という手段で普通じゃない自分になりたい陽キャ」という見事なシンメトリーをこの2人は構成していることは明らかだと思う。
上記の引用シーンでも、ぼっちと喜多はお互い真逆であることを自覚している。

要するに、ぼっちと喜多はお互いの持っているものと持っていないもの、欲しいものとそうでないものが完全に真逆になるよう設定されている。喜多に対しぼっちとリョウどちらを当てるかとなった際、リョウではダメな理由がそこにある。(リョウは喜多の持っていないものをすべて持っているが、リョウは喜多の欲しいものに理解を示していない。)

憧れは良いとして恐れのほうだが、ぼっちの陽キャに対する憧れと恐れはもう言わずもがなとして、喜多の恐れについて触れたい。

まず↓を見てくれ

おそらく50回は見てくれているとは思うが、念のためにもう一回。

このバンドシーンにおける喜多の表情については各所で解釈が分かれている。実際難しいと思う。

アニメは結構改変が多く、特に喜多周りの描写については大幅に改変されている。その最たる例がこのライブシーンで、具体的には原作と表情が真逆なのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=p010N38zFrA

閑話休題となるがオーディション映像もまた見てほしい。
オーディションにおける喜多は、ぼっちの急な実力発揮に一切動じず、虹夏とリョウ(と星歌)のみが反応していた。
一部のファンはこの喜多を見て「ぼっちのソロは本当は上手いから疑いがない…ぼ喜多最高…」とか言っていたが、原作におけるこのシーンでは、喜多の口からハッキリと「?」と出ているので、正解としては「まだ音楽の良し悪しが分からない」あるいは「自分のことで手いっぱいで周りの反応に頭を使う余裕がない」となる。

話を初ライブに戻す。アニメにおける初ライブ時のぼっち覚醒に対し、喜多は困惑する表情を見せ、終始隣のぼっちの様子をうかがっていた。しかし原作では、ぼっち覚醒にほかのメンバーと同様驚いた表情を見せつつも、ほかのメンバーとアイコンタクトで足並みを合わせ、笑顔で歌い切った。

この描写の変更は結構デカいと思うのだがそれは置いといて、どちらの喜多をとっても、おそらくこのライブでぼっちに対する恐れが生まれている。まったく真逆と思える2つの反応が、ボッチに対する共通した感情を想起させている。

アニメ喜多の方は分かりやすく、バンド活動を経てギターとぼっちへの理解を深めてきた時に、突然ぼっちの真の実力をぶつけられたが故の困惑と言えるだろう。
原作喜多は分かりにくいというか、正直そういう描写はゼロなのだが、その後の展開は原作アニメとも大きなずれはないので、喜多のぼっちに対する感情はこの時を境に変化していることに間違いはない。と思う。たぶん。

喜多のぼっちに対する恐れの正体、それはきっと「執念」だと思う。

一番の理由となるのが、文化祭ライブの直後、保健室での2人の会話と先ほど触れた喜多の「憧れ」。

私は一人だと後藤さんみたいな人を惹きつけられるような演奏はできない…
けど皆と合わせるのは得意みたいだから──

ぼっち・ざ・ろっく!2巻より

「普通じゃない道」に憧れる子が、「人を惹きつけられるような演奏はできない…」と諦めを見せている。

この諦めの悲痛さ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
自分の憧れなのに、憧れを追い求めることの辛さだけでなく、代償で今の自分をすべて失うと察している者だけが感じることのできる感情!!!!!!

分かります!?皆さん
この子は賢いから「自分の欲しいものは今自分の持っているものと正反対で、必ずどちらかしか持てないから、失敗したら欲しいものも手に入らず今持っているものを手放す恐怖」を感じているんですよ!?!?!?!?!?

ハァこの恐怖は3巻のお泊り回でより明確に本人の口から示唆されており、

先輩達みたいにずっと音楽が好きでやってきた下積みも ひとりちゃんみたいに全ての時間をギターに注ぎ込む情熱も
唯一無二の才能もカリスマ性も…

ぼっち・ざ・ろっく!3巻より

執念を持つことにこれまで恐怖を抱き続け、逃げ続けた(=普通の生活を選び続けた)自分に対する罪悪感!そして陽キャとしてのスタイルそのものも崩したくないという思春期特有の中途半端さ!全部が全部彼女を「普通の人」として定義してしまう!そして最後には才能のせいにしてしまいそうになる心の弱さも!

ハァァこの喜多の恐れはぼっちのソレと年季は変わらないものであり、自身の性格に深く根差しているという点ではぼっちと似た者同士なのだ。

以上のように、あらゆる面で水と油、お互いが異なる存在であるということを無意識レベルで共有できている2人だが、それでも彼女らは歩み寄ろうとする。

時系列は前後するが、文化祭ライブ編は彼女たちが真にお互いを理解しようと前進したマイルストーンと言える。きっかけは喜多が、ぼっちが捨てた申込用紙を、捨てたと知っていて噓をつき提出したことにある。
思えばこの2人、基本的に喜多側のアプローチから始まりぼっちがそれに応える展開が多い。そこは流石に性格差によるところは大きいのだが、喜多はぼっちという「憧れ」(この段階では無自覚)にはわりと積極的に歩み寄っているのだ。

…今までの流れからして言わずもがななのだが、喜多も相当不器用な女で、リョウに対しては明確に「憧れの的」としての壁を持ち、ぼっちに対しては無自覚ながらも、ぼっちでなくても困惑するような突発的なアプローチ(急にギター教えてとか、勝手に申し込みしたりとか)をするのだ。

喜多はなまじ行動力があるくせにそこそこ悶々としているものを抱えているので可食部が多く、やっぱり結束バンド内では喜多が一番味がする。スルメ女である。

話を戻すと、喜多がぼっちに勝手に申し込んだことを謝り、逆に感謝されたときの一連のシーンから、喜多の歩み寄り、憧れの対象がリョウからぼっちに移った瞬間を窺い知れる。

やっぱり後藤さん…初めて会った頃と少しだけど変わっていってる…
私も頑張らなくちゃ…
リョウ先輩!私のギターの練習みてもらえませんか!

ぼっち・ざ・ろっく!2巻46ページより

ぼっちの変化を感じ取るシーン。画像引用は控えるが、このコマだけ明らかに暗い。ていうか喜多の背景に不穏なほどデカい月がある。なんだお前。
このコマを解釈するなら、おそらく喜多内におけるぼっちの成長への「恐れ」と感じ取れる。
その後、かつての憧れであったリョウに、ぼっちの成長を意識して自主トレをお願いする。

もうこのシーンで喜多の歩み寄りは十分なのだが、文化祭ライブ編における喜多のぼっちに対するアンサーは↓を見てもらえば解決だろ


続いてぼっちの歩み寄りについてだが、こいつ喜多以上にめんどくさすぎる女なので説明が非常に難しい。というかこの記事を書き始めてからここに到達するまで原作を2周しアニメも見ていて一週間ぐらい経っているので書いている人が混乱してきている。ごめんなさい。

そしてぼっちの歩み寄りは基本的にアニメ以降の話(後藤家お泊り編)になり、ネタバレのオンパレードである。アニメ段階では喜多の歩み寄りに焦点が当たっているので、そういう意味ではぼ喜多百合が溢れてしまうのはある種仕方ないのかもしれない。

というか後藤アイツ、身近な陽キャが喜多だけで陽キャのイメージが乏しい(各種奇行参照)せいで、アイツの中の憧れと恐れは「陽キャ=喜多」の構図が完成してしまう。ホント分かりにくいなお前!

とツラツラ言い訳を重ね、「原作を買って読んでください」ということで許してほしい。ごめんなさい。

まとめ

この記事では、主に二次創作等における「ぼ喜多百合恋愛概念」に対する反論を述べてきた。述べてきたというか、ここで締めて反論としての体裁を作る。

要するにぼっち×喜多のみならず、現状の結束バンドは後藤ひとりをマイルストーンとした個々人間の唯一無二な友情の集合体であると言えよう。

結束バンドは作中でよく「結束感がない」だとか「もうお前らバンド名変えろよ」とか言われているぐらいには、バンド全員としてのまとまりは緩い。と言ってもライブシーンで彼女らの成長を周囲が感じ取っていく仕組みになっていて、初期と比べたら圧倒的に結束力のあるバンドになっているのだが(ぽいずん☆やみさん、好き)。

それを差っ引いても、結束バンドというバンドは「ぼっちと虹夏」「ぼっちとリョウ」「ぼっちと喜多」、そして「虹夏とリョウ」「虹夏と喜多」「リョウと喜多」、個々の関係性がネットワークを作っていて、一つのチームとして完成している。

そしてアニメの段階でフォーカスがかかっていたのは、「ぼっちと虹夏」「ぼっちと喜多」であるため、ぼ喜多百合が発生してしまうのだ。

よって簡潔に結論を述べるとするならば、ぼ喜多にあるのは一種の友情の形であり恋愛感情なんてどこにあるんだ、多少でもお互いのことを踏み込んで知ろうとする関係性すべてを恋愛と呼んでると実際の人間関係における経験不足を晒しているようなものだからやめておけ、となる。

以上、しがないオタクのお気持ち表明怪文書でした。年末年始はぼっち・ざ・ろっく!原作を読もう。よいお年を。

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0B6Q9G1GT/ref=atv_hm_hom_3_c_JWBMCz_brws_2_1

2023/1/18追記
本記事に寄せられた感想について、厄介かみつきオタクの反論記事を書きました。
ドン引きしながら読んでください。


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