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さよなら遠い日


家と会社の電話番号を教えた翌日。
会社のほうに彼から電話がかかってきた。

なにか緊急の連絡があったのかしら、と不思議に思いながら
電話をとった。
携帯がない時代の話。
彼は恋人でもなく、告白されたこともなくて、
みんなでお茶を飲んだり食事をしたりする友人の一人だった。

「もしもし」

聞きなれた彼の声である。

「なにかあったの?」
「この番号、繋がるかどうかかけてみた」

今なら、どういう意味、と思うけれど、
20代前半の私は予想外の答えに
一瞬で心を鷲づかみにされてしまった。

私は不意打ちに弱い。
仕事終わりに会う約束が秒速で決まる。


8歳年上の彼に導かれる先は、未知の領域。
なにもかも大人に見えた。

口髭、VANのスーツ、A級ライセンスを持ち
セリカGTに乗っていた。
男性ファッション誌から抜け出てきたような、かっこよく洗練された人だった。

「ホットミルクを飲むと髭につくんだよね」

と言った時の仕草も笑顔もまだ覚えてる。


高架下の薄暗いジャス喫茶で待ち合わせる。
ホテルのバーでカクテルを飲む。
彼はドライマティーニ、わたしも背伸びをしてドライマティーニ。

クルーザーに乗り、海で釣りをし、
島に渡り、釣った魚を調理してもらって食べる。

オペラのボックス席のような指定席で映画を観る。
横断歩道を渡るときには必ず腰に手を回し
エスコートしてくれた。

レストランで食べた「魚介類のクリーム煮クレープ包」。
ひと口食べて、ナイフとフォークを持った手を思わず止めた。

「この世にこんなにも美味しいものがあるの」

泣きそうにいう私をニコニコしながら見てる彼。

タカラジェンヌ御用達のイタリア料理店で食べたラザニア。
今でも大好き。

木漏れ日の中をドライブ。
紅茶好きを知って、
坂道を上ったところにある紅茶専門店に連れていってくれる。
ロイヤルコペンハーゲンのカップでアッサムを飲んだ。

そりゃ好きにもなるわ。

で、彼とはどうなったか知りたい?

彼ね。
私のともだちと結婚したの。
私、知らなかった。
なのに素敵なシーンしか思い出せない。
私の脳は嫌なことは思い出したくないらしい。


「彼、この役をしている時の韓国の俳優さんと瓜二つなの」

時代劇の髭面の武将の写真をともだちに見せた。

「うわ、男前、そりゃ年月経てば経つほど自分の中でいい男になって、忘れられへんわ」

時間のフィルターがかかり、思い出はさらに美しく進化するらしい。


最後に会ってから15年くらい後だったかな

「海外から顧客が来るから通訳してくれへんかな」

と連絡先を探しあてて電話をかけてきた。

こどもがまだ小さかったこともあり、丁寧にお断りしたけれど、
それってどういう意味だったんだろうね。

私の人生史上いちばんの罪な男に尋ねてみたい。

でも、空の上ではなあ。
1年ほど前、スーツを着て迎えに来たと言っている夢を見た。
ねえ、迎えに来る相手をまちがってると思うよ。
いまさらだよ。
でも、ありがとう。

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