見出し画像

ある手紙

お久しぶりです。
もうおしまいと言いながら
あなたにこうして手紙を書いています。


ずっと考えていました。
私が何を思っていたのか、
何を感じていたのか
何をしたかったのか


そう問いかけていると
もう終わりにしたいという言葉が
浮かび上がってきてしまいます。


終わりにしたいって何だろうと考えてみました。


ずっとずっとむかし幼い頃
知ってしまったことがあります。
人の投げかける言葉はときとして、
鋭い刃になってしまう。
そうするつもりもないのに無意識でしてしまうことなのだと。


言葉が本人の意図なく刃になるのならどうしようもない。
私自身もその人たちと何も変わらず
同じことをしているのだろうと気づいてしまいました。


そこには絶望しかありませんでした。
それでも希望は持ちたい。
幼い私は何年も希望と絶望をゆききし、
10代の初めに絶望を受け入れたのです。


生きることも死ぬことも自分の意のままにはならない。
そう思ったのでしょう。


絶望とともに年月を生きるうち、
あらゆるものに対する感覚が研ぎ澄まされていきました。
ネガティブなものに限らず、綺麗な言葉でも
私をおもいやっての言葉、行動、態度にも
違和感を感じる時があります。


どの人のどの言葉の裏にも隠れていて、
繕っても繕っても透けてみえるもの。
プライド、蔑み、支配、妬み、恨み、悲しみ、苦しさ。
言語と非言語の間にある何かが私を刺激するのです。


それが私の好き、嫌い、苦手の決め手となっています。


にじみ出るものはその人の個性のようなものです。
それが人間であり
愛しいところでもある、と理解していても
深層心理で恐怖すら感じてしまう。


正しいとか良し悪しとか何の関係もないのです。
ネガティブでも感じない時もあるし、
ポジティブでも感じる時は感じます。


あなたが自分の感覚や直観を大切にするように、
私が言語と非言語の間にある何かを
決め手とすることを
変えることはできません。


心の奥深くに感じてしまう感覚。
まず距離をあける、逃げるしかないでしょう。
相手も私もどうにもならないのですもの。


あなたが心からおもってくれる気持ちを
受けとりきれないのはそんな私だからでしょうか。


彼ならいいのか、
いいえ、彼ではない、あなたが言ったようにね。


親しく心をひらいてつきあえる
お友だちだけれど、
親密にはなれない。
濃密な時間を過ごすならば、
自分のなにかの感覚を
鈍らせる必要があると思います。
無理が出てきてしまう。


人に対する決め手の違い
あなたと私が何度も議論しても噛み合わない部分だろうと思います。


これでも躊躇しながら、現実という表舞台に立っていたのですよ。
「ひっそり誰にも知られず朽ち果てたい」と言っていた私のおもいは
人生の最後と悟った時の切り札として持っていきます。
それまでは、バランスをとりながら表舞台も楽しんでみます。
現実に生きることからは逃げられないのですから。


でも、あなたのおかげで
ここまで言葉にできたから、
今までよりは少し上手に歩けるかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?