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【ビフォア・ザ・ベル・リンギング】

【この小説はニンジャスレイヤーの二次創作です】

昼夜を問わないネオンサインが、その光量を落としている。色街に犇くサラリマンたちは、この日ばかりは各々の家庭で静かな時を過ごす。客引きたちが数少ないカモの奪い合いに無言の火花を散らす。だがその瞳に本気の憎悪は宿らない。年の瀬のネオサイタマは、薄氷に覆われたタマ・リバーの水面のように静かだ。

今日はオショガツの前日。オミソカと呼ばれる特別な一日だ。オショガツとは一月一日を指すと同時に、古代より連なる伝統的儀式を意味する。当然その前日たるオミソカも特別な意味合いを持っている。自宅を徹底的に掃除し、ソバを食べ、この一年の厄を落とすのだ。新たな一年を清々しい気持ちで迎え入れるために。

だが無論、この静寂の中も忙しなく働くものたちもいる。客引き、ソバ・ドライバー、家族のいないサラリマン。そしてボンズだ。オショガツの早朝、人々は一斉にテンプルへ向かい、祖先の霊やブッダに感謝の祈りを捧げる。
ハツモデと呼ばれる奥ゆかしい風習である。

それはこのイシノ・ストリートのような郊外でも、オショガツ花火の爆音けたたましい中心部でも同じだ。ゆえにボンズたちは今日一日を参拝客を迎えるための準備に費やすのだ。

だが……おお、どうしたことだろう? イシノ・マウンテン山中。過酷な環境下で修行に勤しむアレバノ・テンプルにボンズの影はない。いや、それどころか人影一つないではないか。テンプルは静まりかえり、ネズミの足音すら聞こえない。

何故? その答えは石段にある! 見よ! 最下段に垂れた、凍えた赤い血液を! 血痕をたどる先、うつ伏せに倒れ動かないボンズの姿を! それは1人、2人……4人もいる! ナムアミダブツ! その中にはテンプルを仕切る僧正、グレーターボンズのホヤノ=サンの姿すらあるではないか! そしてその額に突き刺さっているものは……!


◆ ◆ ◆


「ンン……フゥー……暇で暇で仕方がないな、カミヤ=サン」

山頂。石段を登った先、ジョヤ・ベルが備え付けられた広場には二人の男の姿がある。その一方。胸にクロスカタナのバッヂを付けた紫のニンジャ装束の男は、メンポの隙間から葉巻の煙をゆっくりと吐いた。天に昇ろうとする蒸気は寒風で即座に凍りつき、ポタポタと地面に落ちる。

「アイエエエ……」

そしてもう一方。登山にはおよそ似合わぬビジネス・コートに身を包む小太りの中年男は、ブザマに身を震わせていた。無論、その震えは寒さによるものだけではない。

「クク……そう怯えるな、非ニンジャのクズ」

「アイエエエ……」

「そんなにボンズどもを手慰みにしたのが恐ろしいか? この俺の、ニンジャの力が?」

「アイエエエ……!」

カミヤは恐怖を隠せない。隠せるはずがない。ニンジャ。オノデラ・カミヤにとってそれは、ドラゴンや吸血鬼のような伝説上の存在に過ぎなかったのだから。

ネコソギ・ファンドから護衛として付けられた、このアンチェインドと名乗るニンジャは、テンプルの鍛えられたボンズたちに指一本触れさせぬまま、カラテとスリケンで皆殺しにした。逞しく鍛え上げたカラテカであっても、数の力には屈せざるを得ない……そんな弱者の常識を軽々しく踏みにじって見せたのだ。

「もう少し会話を楽しむ余裕を持ったらどうかね? ン?」

「も、持てません」

「持てません?」

ピクリ、とニンジャが眉をひそめた。カミヤは失禁した。ニンジャは威圧的に顔を寄せると、言った。

「俺はそんな答えを求めていないぞ、カミヤ=サン。要領の悪い男だ……それでは社会を渡れないぞ。聞かなかったことにしてやる故、もう一度答えろ。余裕を持てるな?」

「も、持てます」

「よろしい」

ニンジャは顔を離し、満足そうに笑った。カミヤは悪い夢を見ているような気分だった。会社を設立してから今の今まで、長い悪夢を。

叩き上げのエスイーであったカミヤは、二十年ほどの過酷な労働でカネを貯め、今年の初めにとうとう自身の会社を設立した。横行する過剰無給残業、カロウシ、ピンハネ、自我損傷……そうした負の遺産を、若い世代に遺さないために。彼にとってそれは業界への恩返しであり、義務だった。だがそんなカミヤに待っていたのは、二度目の社会の洗礼だった。

客先で定時帰宅するカミヤ・エクスペリメント社のエスイーに与えられたのは、同じ値段でその二倍三倍も働く他社エスイーと比較しての『怠け者』の烙印だ。彼らが実際にこなした仕事量は大差がない。だが客先サラリマンもまた、他社エスイーと一緒になって残業を行う身分である。

同じ苦労を共有するものと、己が働く時間に休んでいるもの……否応なしに掛かったバイアスが、無自覚に評価をねじ曲げたのだ。カミヤ社の現場エスイーは無給残業の申し出をしたが、カミヤは企業理念を優先し、断った。……結果、彼らはまとめて仕事を失った。

「実験は失敗でしたね」

「バカ!」

「俺の時間返してくださいよ」

社員たちは口々にカミヤを罵り、彼の元から去っていった。わずかに残った社員も口ではカミヤを気遣いながら、職場では秘密IRCを使った転職活動をしている。出勤しているのは、職場で待機していさえすれば給与が出るからだ。

こんなはずじゃない。私の理念は間違っていない。カミヤはそう信じ、一人営業に出向き続けた。だがルーザーの理想に耳を傾けるものなど誰もいなかった。

支払い給与の大半をネコソギ・ファンド社からの借金で賄いながら、カミヤはガムシャラに働き続け……そして先日、ついに最後の社員が彼のもとを去った。意気消沈する彼のもとに借金取りが現れたのは、その二日後のことだ……

(だが……何故、”これ”なんだ?)

ぼんやりとした自我の中、カミヤは思考する。ファンドの男が借金免除の条件として提示したのは、ごくシンプルな仕事……「アレバノ・テンプルのジョヤ・ベルを鳴らす」ただそれだけだった。

ジョヤ・ベルとはオミソカの深夜に鳴らされる大型の鐘であり、108度鳴らす事で一年の災厄を祓う神秘的なアーティファクトとされる。カミヤもまた、子供の頃はその音色に聞き入り、翌年の活躍を祈願したものだ。

無論、カミヤは訝しんだ……だが他に何ができる? 見込みのない男にカネを貸してくれた篤志家に、恩を仇で返すのか? 彼は仕事を請負い、そして今夜テンプルへ出向いた。何らかの違法行為を行なわされることは覚悟していた。だがまさか、これほどまでの殺戮が……

(私が鐘を鳴らす……ただそれだけのために、何故こんなことを?)

カミヤはおそるおそるニンジャを見た。テンプルに電波が届かないと知った彼は、退屈そうに小型IRC端末を宙に放り、弄んでいる。罪悪感など存在しないかのようだった。カミヤは気が遠のくのを感じた。直後。

「オイ」

「アッハイ!」

カミヤは反射的に身を正す。ニンジャはシリアスに言った。

「先ほどから物音がする。聞こえないか?」

「エッ?」

カミヤは耳を澄ませようとする。額に脂汗がにじむ。だが、何も聞こえない。

「何も……聞こえません」

「ハッ!」

ニンジャは鼻で笑った。シマッタ。カミヤは身を震わせる。空気を読んで『聞こえた』と答えるべき場面だったのだ! だがニンジャは意外にも怒らなかった。

「フ……卑しき非ニンジャが、俺のニンジャ聴覚力について来れる訳もなし」

「アイエッ……」

「身の程というものを分かっておるな、カミヤ=サン。社会的地位など無価値、無意味よ。俺のようなニンジャは常に一段高いレイヤにいるのだ」

ニンジャは愉快そうに笑った。カミヤは血の気が戻ってくるのを感じた。気難しいスフィンクスと問答しているような気分だった。だがこの相手は、神話のスフィンクスより遥かに獰悪な怪物だ。

「どれ、俺が一つ見てこよう。どうせ外出していたボンズか何かだ。今日はオミソカだからな」

神聖なオミソカには、テンプル周辺に近づかぬことが慣しである。決して汚してはならぬ厳かな儀式なのだ。

(ア……)

カミヤはニンジャの背中に声をかけようとした。ボンズ様と出会った時、どうするのですか、と。だが恐怖がそれを押し留めさせた。

(そ、そうだ。私の知ったことじゃない。あれはアンチェインド=サンが勝手に。私は、関係ない……)

罪悪感に苛まれながら言葉を飲み込む。アンチェインドは腕を組み、石段の中腹に目を留めた。ハンチング帽を被ったトレンチコートの男が、死体の見開かれた目を閉ざしている。ニンジャは失笑した。非ニンジャのカスは、危機下における行動優先度も分からぬか。

「オイ、そこのお前」

アンチェインドは高圧的に呼び掛けた。男は彼の方を向きすらしなかった。眉間に血管が浮かぶ。

「イヤーッ!」

カラテ・シャウトとともにニンジャは回転ジャンプし、男の一段上に着地し、ハンチング帽をはたき落とした。彼は嘲った。

「そこのお前、と言ったのだ。実際安いクズめ」

「……ニンジャ?」

「然り、ニンジャだ。ついでにそのカスどもは俺が殺した」

アンチェインドは目を細める。男は何も答えない。恐怖のあまり声も出ないか。

「それで、貴様……ボンズには見えんな。ここで何をしている?」

「待っていたのです」

意外にもハッキリとした返答に、彼は少し困惑した。だが続けて横柄に尋ねた。

「何をだ?」

男はジゴクめいた声で返した。

「マヌケがノコノコと近づいてくるのをだ」

(何……)

アンチェインドが思考する間もなく、男は裏拳とともに振り向いた。ドクン。瞬時に時間感覚が泥めいて鈍化する。男の目には怒り。その頬にはメンポ。そこに刻まれたのは『忍』『殺』の二文字……!

(馬鹿な! コイツは……)

「イヤーッ!」

「グワーッ!?」

ゴウランガ! 強烈な裏拳がアンチェインドの腹に突き刺さる! 邪悪なニンジャの体は石段20段分も跳ね上がる! だがトレンチコートを脱ぎ捨てた男の目に慢心の色はなし! 敵は攻撃兆候を察知し、直前に後ろに飛ぶことで威力を殺したのだ!

「イイイ……ヤアアアーッ!」

追撃! 凛としたシャウトとともにスリケン三連投!

「イヤーッ!」

ガキンガキンガキン!

アンチェインドはクナイで弾いた。着地の瞬間、クナイ・ワークで隙を殺した頃には、敵はオジギに入っていた。

「ドーモ、アンチェインド=サン。ニンジャスレイヤーです」

「ドーモ、ニンジャスレイヤー=サン。アンチェインドです」

ギリギリと歯を鳴らす。イクサの精神的優位性は、立ち位置の高低とまるで逆だった。そしてカラテの力量も。優れたショーギ棋士は最初の一手を見ただけで相手の実力を測れるというが、それと同じことだ。彼は辛うじて虚勢を保ちつつ問うた。

「ネオサイタマの死神……何故俺を」

「当然、殺すためだ」

死神はピシャリと言った。

「オヌシにハツヒノデを見せるつもりはない。ソウカイヤのニンジャよ」

「何故俺を、と言っている!」

「イヤーッ!」

死神はスリケン投擲と同時に跳躍! アンチェインドは闘志を燃やす。カミヤを殺されれば、ラオモト=サンの計画が破綻してしまう!

「行かせんぞ、イヤーッ!」

スリケン二連投! ここが平地であれば止めることは能わなかっただろう。
だが位置エネルギーを得たスリケンは死神のスリケンと対消滅!

「イヤーッ! イヤーッ!」

アンチェインドはさらに後退しつつスリケンを投擲!

「ヌウーッ!」

ニンジャスレイヤーは対処を迫られ、動きが限定される! いかに力量差があろうと、スリケンが刺さればダメージは甚大! アンチェインドは回転ジャンプで最後の石段を越えると、回転エネルギーを上乗せしたスリケンを置き土産に飛ばし、広場に戻った!

「イヤーッ!」

「アイエエエ!?」

ジョヤ・ベル付近で待っていたカミヤはあまりの跳躍力を見、失禁! アンチェインドは彼を小脇に抱え走り出す!

「逃げるぞ!」

「イヤーッ!」

死神がその後を追う!

「アイエーエエエ!」

カミヤは背後からのカラテ・シャウトに再失禁!

「イヤーッ!」

ニンジャスレイヤーは短い状況判断の後、アンチェインドの背中にスリケン投擲!

「イヤーッ!」

ジャンプして躱す! だが着地点にニンジャスレイヤーの更なるスリケンが迫る!

「グワーッ!?」

背骨の右に着弾! だがキアイで耐え、逃走続行!

「アイエエエ!」

カミヤが叫ぶ!

「イヤーッ!」

ニンジャスレイヤーは短い状況判断の後、アンチェインドの背中にスリケン投擲!

「イヤーッ!」

ジャンプして躱す! だが着地点にニンジャスレイヤーの更なるスリケンが迫る!

「グワーッ!?」

背骨の左に着弾! だがキアイで耐え、逃走続行!

「アイエエエ!」

カミヤが叫ぶ!

「イヤーッ!」

ニンジャスレイヤーは短い状況判断の後、アンチェインドの背中にスリケン投擲!

「イヤーッ!」

ジャンプして躱す! だが着地点にニンジャスレイヤーの更なるスリケンが迫る!

「ウオーッ!」

背骨に着弾……せず! アンチェインドの体は柵を飛び越え、広場の外に出ていた! タイガーに追われる鹿めいて、優れた平衡感覚で急斜面を駆け下りる!

「アイエエエ!」

カミヤがわけもわからず叫ぶ! ニンジャの速度でなされる逃走劇は、常人には暴走ジェットコースターめいて予測不能!

「イヤーッ!」

ニンジャスレイヤーは上からスリケン二連投! だが地の利はアンチェインドにある! 複雑な高低差とニンジャ脚力が合わさり、無数の行動パターンが生まれているのだ!

「イヤーッ!」

アンチェインドは跳躍! スリケンが左肩を掠める! 彼はよくしなるバイオバンブーを蹴り、反動跳躍! 経路上の枝や葉を散らしながら、砲丸めいて右へ飛ぶ! 着弾先には別のバイオバンブー! さらに蹴る! ピンボールめいて加速!

「ヌウーッ!」

ニンジャスレイヤーは飛行経路を狙う! だがさしもの死神のスリケンとて、乱反射するアンチェインドの動きに追いつくことは不可能!

「オボーッ!」

抱えられたカミヤが耐えきれず嘔吐! 意識断絶! アンチェインドは構わず次のバイオバンブーを蹴る! 跳躍! 跳躍! 跳躍!

「イイ……ヤアアアーッ!」

……離脱!

「ヌウウーッ!」

ニンジャスレイヤーはスリケンを連投しようとするが、敵は既に彼の視界から消えていた!


◆ ◆ ◆


「ハァーッ……ハァーッ……! ここまで来れば……!」

どさりとカミヤを床に落とし、アンチェインドは座り込む。背中のスリケンもそのままに、彼は携帯IRC端末に電波ブースターをセット。ソウカイネットとの通信を始めた。

「急がねば……急げ……!」

アンチェインドは苛立ちを隠せぬまま、指先に意識を集中させる。すると五本の指先がそれぞれ二又に分かれ、独立して動き始めた! コワイ! 彼は舌打ちする。二度と使いたくなかった機構だが、贅沢は言えぬ。

カタタタタ……カタタ……激しいタイプ音が、アレバノ・テンプルの木造の宿坊に反響する。外へどれだけ音が漏れているかは……祈るしかない。フートンを腕に被せる暇すらも惜しいのだ。救援メッセージを送り終えると、彼はようやく一息ついた。

「ン……うう……」

その脇。意識の戻ったカミヤは、まずガンガンと痛む頭を押さえた。視界は霞がかかり、口の中は酸っぱい臭いに満たされている。彼は起き上がろうとし……眼前に転がっていた若いボンズの死体に気づいた!

「アイ……!」

悲鳴を上げかけたカミヤの口元を、アンチェインドが咄嗟に抑える!

(黙れ! 殺すぞ! 非ニンジャのクズめ!)

(アイエ……エ?)

カミヤは失禁しかけ……鼻先の異変に気づく。自身を押さえるニンジャの手。その親指の先が二又に分かれている。物理タイプ速度を倍加する、生体LAN端子忌避者向けの、現場で見慣れた違法サイバネ手術である。

(これは……)

(理解したか! 貴様……)

早合点し、アンチェインドは手を離した。だが未だ脳が半覚醒状態にあるカミヤは、何ら打算なく虚な目を向け、尋ねた。

(君も……エスイーだったのか……?)

(……!)


◆ ◆ ◆


その瞬間、アンチェインドの脳裏に蘇ったのは、モータル時代の記憶……薄暗いビルの中でオミソカに深夜残業していたころの記憶だった。死んだマグロの目でゲーミング・サーバーの接続推移を見守りながら、彼はジョヤ・ベルの音を聞いていた。

(クソッ……!)

彼は舌打ちするが、口の中はカラカラで音も鳴らない。社長はすでに退社した。同僚も同じだ。家族や恋人と過ごしているらしい。少なくともそういう理由で、彼はこの無給残業を買って出たのだ。誰かがやらなければならなかったのだから。

(クソッ……クソッ……!)

こぶしを握りしめ、歯を食いしばる。にじむ涙は無い。ただただ悔しかった。今ここにいること、それ自体が悔しかったのだ。ジョヤ・ベルの神聖なる音色は、ただの騒音にしか聞こえなかった。

ゴーン……ひときわ大きな音が鳴った瞬間、花火の光が真っ暗なオフィスを照らした。

「「「アケマシテオメデトゴザイマス!」」」

「黙れッ!」

ドォン! 弱々しい叫び声を花火の音がかき消した。浮かれ騒ぐ楽しげな声が、嫌でも耳に入ってきた。ゴーン……鐘の音がふたたび鳴った。

「黙れ、黙れ、黙れッ!」

キーボードを避け、机を殴りつける。接続グラフが上向いていく。新年を祝う音楽が流れてくる。鐘の音。笑い声……

「黙れーッ!」


◆ ◆ ◆


(違う……!)

(アンチェインド=サン……?)

カミヤが訝しむ目を向ける。それが彼には、まるで労っているかのように見えた。

「違う!」

アンチェインドは突然立ち上がる。怒りが背中の筋肉を収縮させ、刺さっていたスリケンが落ちる!

「俺はニンジャだ! エスイーなどではない! ラオモト=サンのために命を捧げる、誇り高きセンシなのだッ!

アンチェインドは思わず激昂し、怒鳴っていた!

「アイエエエ!」

カミヤが失禁し、泡を吹く。瞬間、ニンジャは過ちに気づいた!

「シマッタ、居場所が……!」

壁に張り付くようにして、彼は死神の気配を探る。今はない。だが……静かな山奥であんな声を出せば、遅かれ早かれ……!

(場所を変えるか……? いや、すぐに気づかれる……!)

アンチェインドは状況判断する。このままこの場に篭るのはあり得ない。救援が来るにもまだ時間は掛かるだろう。外へ出向き、戦うか? いや、カラテの差は歴然としている……!

「アイ……アイエエエ……!」

カミヤが後ずさる。そうだ。元はと言えばこいつだ。この男が余計なことを……! だがこいつは殺せぬ。ラオモト=サンの計画のためにも!

「クソッ……!」

もどかしさの中、アンチェインドは手のひらに拳を叩きつけた。カミヤがおずおずと謝ろうとした。

「も、申し訳……」

「黙れと言っておるのだッ!」

しかしそれはニンジャの怒りを逆撫でするだけだった! 勢いよく床を踏み砕く! 破けた木片が飛ぶ!

「アイエエエ!」

再失禁! 恐慌の中、カミヤは胎児のように身を丸め、頭を庇う! アンチェインドはざしざしと歩み寄り、カミヤの耳元で言った。

(……貴様はそこで寝ておれ!)

(アイエ……ア、アンチェインド=サンは……?)

(俺はセンシだ……!)

アンチェインドは踵を返し、宿舎の入り口へと歩いていく。カミヤは震えながら顔を上げた。ニンジャの横顔には悲壮な決意とでも言うべきものが宿っていた。彼は息を呑んだ。ニンジャはゆっくりと宿舎を出て行った。


◆ ◆ ◆


「……来たか」

月光がアンチェインドの装束を照らす。山門をくぐり、ストーン・タタミを踏みしめ、赤黒の死神が真正面から歩いてくる。まるでジゴクから現れた猟犬だった。ニンジャスレイヤーは厳かに言った。

「逃げずに待っていたことを褒めてやろう。ハイクを詠め」

「ふざけろ。死ぬのは貴様だ、ニンジャスレイヤー=サン」

「己のカラテを見定めてから物を言え」

死神はジュー・ジツの構えを取る。アンチェインドは体を震わせた。実力差は身に染みている。それでも退くわけにはいかない。カミヤが鐘を鳴らすまでは。ソウカイヤのセンシとして、敬愛するラオモト=サンに任務を授かったのだから。

彼はソウカイヤのスカウトに連れられ、初めてラオモトと謁見した時のことを思い出す。その姿はまるで暴力とエゴの化身だった。圧倒的な自我を持つものだけが放てる存在感は、一瞬で彼を虜にした。彼は直感した。ラオモトのようには絶対になれない。だが彼のような男に仕えるセンシとなり、価値ある存在にはなれると。ゆえに引けぬのだ。己がセンシであるために!

「フゥーッ……!」

アンチェインドは中腰になり、深く呼吸する。素のカラテに差がある以上、一撃に賭ける以外に術はない。すなわちニンジャソウル由来のヒサツ・ワザに。内なるニンジャソウルを信じよ。己をニンジャ足らしめる存在を。ストーン・タタミが強烈な踏みしめに耐えきれず、みしりとヒビを入れ始める。

(あの構えは……?)

ニンジャスレイヤーは構えながら警戒する。そのニューロンに語りかける声あり。

(((グググ……あれはモズ・ニンジャクランの構えだ)))

(ナラク)

(((しかしあれはレッサーニンジャのソウル……弱敵も弱敵よ。差し詰めハエかアブ……)))

(あの構えは何を意味する)

(((大跳躍からの急降下……モズ・ダイブキックの構えよ。威力だけは絶大だが、同時にカウンターの威力を極大化させる……交差の瞬間を狙え、フジキド……)))

邪悪なる声が溶けていく。ニンジャスレイヤーは……フジキド・ケンジの意識は眼前に戻る。だがその時、ざり、と遠くから這うような音がした。ニンジャスレイヤーの意識が微かに逸れた。アンチェインドの目がギラリと光った! 好機!

「イヤーッ!」

タタミを爆砕する強烈な踏みつけとともに、彼の体は上空15mにまで急上昇! そのまま空中で一回転し、蹴り足を鋭く伸ばしたモズ・ダイブキックの構えに移る!

「イイイ……ヤアアーッ!」

夜空を切り裂く鋭いシャウトとともに、アンチェインドの体は獲物を啄むモズめいて急降下! 凄まじい風圧がニンジャスレイヤーのマフラーめいた首布をたなびかせる! 死神はカウンターの構えを取る! キックを最小限の動きで避けるとともに、顔面に拳を炸裂させる心算だ! 互いに直撃すれば、一撃で首を刈り取ることは確実である!

アンチェインドの蹴り足が迫る! だが……! おお、なんたることか!? ダイブキックの照準は、死神の肉体からわずかにズレている! これでは敵を殺すことなど出来ない! もしや避けたはずの背骨へのダメージが、彼の空間認知能力に異常を及ぼしていたのか!?

「「イイイヤァアアアーッ!」」

二人は同時に咆哮! アンチェインドの蹴り足は死神を捉えそこね、タタミに着弾! 破片が弾丸めいて飛び散る! ニンジャスレイヤーの対空カウンターポムポム・パンチはアンチェインドを捉え損ね、空を切る! だがこれが! このシチュエーションこそが、アンチェインドの最も望むところであった!

「イヤーッ!」

アンチェインドは着地の勢いを殺さぬまま、レーザー反射めいた角度で再跳躍! さらに舞い上がったタタミ石片を蹴り、蹴り、蹴り、空中で極限加速し、ニンジャスレイヤーの背後上空で体を捻る! 背負ったドクロめいた月に、紫の影が鮮烈な光景を描く! 影は再度のモズ・ダイブキックの構えを取る! たゆまぬ修練がものにした彼自身のヒサツ・ワザ! 二連モズ・ダイブキックの構えを!

「終わりだ、ニンジャスレイヤー=サン! イイヤアアアアーッ!

急降下! 急加速! 連続ニトロ噴射したスポーツカーめいて爆進! 反動などハナから考慮してはいない! 死神を殺す、ただそれだけが彼の全てだった! ニンジャスレイヤーの振り向きは……ナムサン、間に合わぬ! 勝利を確信した、その時!

「イヤーッ!」

ニンジャスレイヤーは背を向けたまま跳躍した!

(何……)

ドクン。死神のムーンサルト回転が、極限のアンチェインドにはスローモーションに見えていた。己の爪先が死神の背中をわずかに掠め、そのまま通過する無慈悲な光景を、彼は驚愕とともに見た。死神の体は一回転し、交差の瞬間、『忍』『殺』メンポがアンチェインドのメンポと擦れあった。彼はただ、畏怖した。ニンジャスレイヤーの右腕が伸び、死神の鎌めいて首を抱えた。

「イヤーッ!」

「アバーッ!?」

弾丸めいた蹴り足がストーン・タタミに突き刺さるのを、アンチェインドの頭部は見ていた。脳によるコントロールを失った体は、クラッシュしたレーシングカーめいてバウンドを繰り返し、テンプル敷地外の森林に落ちて行った。

アンチェインドは悟った。全力を尽くし、それでもなお及ばずの敗北を。それは彼が想像していたよりもずっと、悔しくも惨めでも無かった。

「サヨナラ!」

アンチェインドは爆発四散した。


◆ ◆ ◆


「アイエエエ……」

カミヤはアンチェインドが爆発四散する光景を、宿舎に空いた隙間から見ていた。それは先の虐殺で、アンチェインドの放ったスリケンがボンズの頭とともに切り開いた穴であった。

何故覗いていたのか。カミヤ自身にもわからない。あの赤黒のニンジャに見つかれば死が待っている。それを理解していながらも、自然と体が動いていたのだ。彼の目には、闇雲にシャッターを切った報道カメラマンめいて、奇跡の一瞬が……月光を背負うアンチェインドの姿が焼きついていた。

赤黒のニンジャはアンチェインドの体が飛んで行った方へ歩いて行った。理由は分からない。何かを探しているのか。それともおぞましい、怪物的な儀式を企てているのか。それでも今の彼には、それが明確な目的を持った行動だと理解できていた。

(あのニンジャは、どこへ行ってしまったのだろう……?)

カミヤはおそるおそる隙間を覗き込んだ。その先には目があった。恐るべき殺意を湛えた黒い眼光が彼を竦み上がらせた。

「アイエッ!」

カミヤは尻餅をつく。その横で死神は宿舎のドアを開け、平然とエントリーした。彼は腕を組み、見下ろした。

「オノデラ・カミヤ=サンだな」

「アイエエエ……そ、そうです……」

カミヤは何とか答えた。ニンジャは恐怖を見透かしたように言った。

「案ずるな。オヌシに危害を加えるつもりはない」

「な、何故ですか……」

「私がニンジャスレイヤーだからだ」

ニンジャは厳かに言うと、指令マキモノを取り出した。アンチェインドの爆発四散痕から見つけ出したものだ。彼はそこから、オノデラ・カミヤが事情を知らぬことを掴んでいたのだ。

「それは……?」

「オヌシが何故、鐘を鳴らすことになったのか。それに何故、ここまでの殺戮を行う必要があったのか。その答えがここと。そして、これにある」

ニンジャスレイヤーは小さなスピーカーを取り出し、再生スイッチを押した。不協和音をフィーチャーした軽快なスカムポップとともに、扇情的なオイラン音声が流れ出す。カミヤ・エクスペリメント社の社名を繰り返しながら、下品に褒め立てる……

「これは……?」

カミヤは目眩を覚えた。何かおぞましいものに足首を掴まれているような気分だった。ニンジャスレイヤーは静かに答えた。

「オヌシの用意した広告音声だ。ジョヤ・ベルを鳴らすと同時、この音声が一帯に響き渡る……ジョヤ・ベルの鐘の音で心を洗うはずだった市民の元にな」

「私が……? いや、そんなことをすれば……!」

「然り。無意味どころではない。完全に逆効果だ。オヌシはそれを恥じ入り、無計画にセプクする」

ニンジャスレイヤーは断定的に言うと、マキモノを広げた。そこにはソウカイ・シンジケートの企てた陰謀の一部始終が載っていた。

静かな夜に流れ、市民が自発的に聴き入るジョヤ・ベルの音色。それに広告音声を付加すれば、一年に一度の機会を入札制にすれば、得られる利益は莫大なものとなるだろう。

ラオモト・カンの悪魔的発想は、ネオサイタマ宗教界のトップ、タダオ大僧正との密約により具体化した。ジョヤ・ベルに広告を付加する……世論がそれを許容する流れを作り出せたのなら、広告入札にソウカイヤを一枚噛ませるという契約を交わしたのだ。

当然、それは容易ではない。そのためにラオモトが用意したのがカミヤ社だった。惨めなルーザーが、フリークアウトし社会にとって大切なものを踏みにじる……ネオサイタマではありふれた話だ。オノデラ・カミヤは自身を受け入れない社会に癇癪を起こし、テンプルを襲撃。何ら落ち度のないボンズたちを殺戮し、ジョヤ・ベルを金儲けの道具に作り替え、無責任にセプクするのだ。

だが反発する市民感情とは裏腹に、カミヤ社はそこから奇跡のV字回復を遂げる。それはネコソギ・ファンドの作り上げるサクラ・プログラムであり、単なる演出に過ぎない。しかしジョヤ・ベルの広告効果を知った企業群は株主たちに背中を押され、自社の広告音声を載せるべく躍起になるだろう。そこに満を辞して”仕方なく”タダオ大僧正が広告掲載を許可するのだ。生まれたヘイトを背負うのは、カミヤただ一人……

「では、私は……」

彼とて、ロクでもない結末が待っているとは理解していた。だがそれでも、ここまでとは。カミヤは己を待ち受けていた末路を想像し震えた。ニンジャスレイヤーは無感情に言った。

「……あのニンジャの手により、セプクさせられていただろう」

「なんと……いう……」

カミヤは呻いた。それだけ言うのがやっとだった。ニンジャスレイヤーは構わず、後ろを向いた。

「オヌシはここにおれ」

「どこへ……?」

「あのニンジャは救援を呼んだだろう。それを狩り殺す」

「な……」

カミヤは息を呑む。まだ戦うのか? あれだけの死闘を潜り抜けてなお?

「ここに隠れておれ。巻き添えにならぬようにな」

「ですが、私は……」

「時間がないのだ。定時連絡が途絶え、不審は確信に変わっているだろう。今からオヌシを下山させる余裕はないのだ」

ニンジャスレイヤーは厳かに言った。カミヤは彼の真摯な目を見て、それが真実であると悟った。このニンジャは、本気で私のことを思案しているのだと。だが、こんな場所では……カミヤは不安げに辺りを見回した。ボンズの死体が視界に入り、不安を駆り立てる。それと同時に、純粋な疑問をも。

「そ、そうだ。ボンズ様がみな死んでしまったのなら……今夜のジョヤ・ベルは誰が……?」

不意に口をついた言葉だった。昔から彼は、こうしたことを気にし過ぎてきた。ゆえに様々な損を背負わされてきたのだ。ニンジャスレイヤーはかぶりを振った。

「……オヌシの思うところではない。繰り返すが、私にオヌシを守る余裕はないのだ」

それだけ言い残すと、ニンジャスレイヤーは去って行った。カラテを構え、ニンジャを殺すために。暗い宿坊。高い天井の下には、カミヤとボンズの死体だけが残されていた。カミヤは回想する。今に連なる過去を。ここに至るまでの道のりを。

(そうだ……あのニンジャの言う通りだ。今はそんなことを悠長に気にしてる場合じゃない。それに何故私がそんなことをしなければならないんだ? みんなのために努力して、誰か私に報いたか? 利用するだけ利用して、みんないなくなったじゃないか)

定まらぬ視線が、一人のボンズの虚な目線と合う。カミヤは反射的に目を背けた。

(そうだ、私も……ひ、被害者なんだ。死んだボンズ様たちと同じだ。みんなのために鐘を鳴らす……それに何の意味があるっていうんだ? もう貧乏くじを引くのはゴメンだ……)

過去を反芻する。そこにはジョヤ・ベルの記憶もある。率先して思い出すほどでもないが、年の瀬に思いを馳せた記憶が彼にもある。大人になってからはご無沙汰だったが、子供の頃は静かに鐘の音を聞いたものだった。数十年経った今も、ニューロンの片隅にこびりついた幸せな記憶……

それでもそれは遠い昔の、夢のような話だった。

(関係ないんだ。私には、もう……)


◆ ◆ ◆


「「「アケマシテオメデトゴザイマス!」」」

ドォン! ドォン! 町会の用意した小規模な花火が奥ゆかしく夜空を彩る。イシノ・ストリートに集まった若者たちはみな一様に口を開け、趣向を凝らした美しい爆発に見惚れていた。

「スッゴイ! スッゴイだよパパ!」

それはストリートから幾ばくか離れた、ある家庭でも同様だった。窓ガラスの向こう、夜空を指差して飛び跳ねる息子に、父は肩をすくめて言った。

「ああ、すごいな。実際スゴイ花火だ。だからもう、寝ような?」

「ヤダ!」

「お前はまたワガママを……大きくなれないぞ?」

「だってまだジョヤ・ベルが鳴ってないよ!」

息子はにんまりと笑い、振り返る。ジョヤ・ベルを響かせる時間は、テンプルによって差がある。アレバノ・テンプルのそれは年が明け、花火の余韻が冷めてから……そういう慣しであった。

「大切な伝統なんでしょ!」

「お前は……どんどん口が達者になるな」

父は眉間を押さえた。母がクスクスと笑う。

「誰に似たのかしらね」

父は苦笑し、誤魔化すように言った。

「まあ、口が上手くて損することもないよな」

「まだかな、まだかな……!」

窓枠に小さな掌を乗せ、息子はジョヤ・ベルの音色を待つ。冬休み明け、小学校の友達に年越し儀式の完遂を自慢するために。だが、様子がおかしい。ジョヤ・ベルの音がいつまで経っても聞こえてこない。

「おかしいね……もうアレバノ・テンプルの鐘が鳴るはずなのに」

父が訝しむ。母はこのストリートの生まれでは無い。彼女は何気なく言った。

「やめちゃった、なんて事ないわよね?」

「まさか! 伝統行事だぞ」

「だよね。……ん……」

息子がうとうととし始めた。父はその姿に、かつての自分自身を重ねる。何の意味もない、それでも何か自分にとって重大なことをこなすために、必死になる姿に。

「ねえ、あなた。そろそろこの子を……」

「いや、まだだ」

「えっ?」

父は息子を抱き寄せ、優しく頬を叩いた。パチリと目を開けた息子を抱いて、彼は妻に言った。

「もう少し……もう少しだけ。見守ってやろう。だから……」

ゴォォォォン……ゴォォォォン……

その時だった。イシノ・ストリートに生きる全てのものたちに、鐘の音が届いたのは。

「オッ、やっとかい。今年は遅かったねェ」

路地裏ではパンクス女がバッドサインを作り、歯を剥き出しにして笑う。彼女は帰省中のため、メイクは控えめだ。

「ボンズ様もお疲れなのかね?」

「ホヤノ=サンもお歳だからね。お体に何もないといいんだけれど」

民家では老夫婦が、コタツに入りながら耳を澄ませた。食べきれなかった年越しソバが、ツユを吸って膨らんでいた。

「そっか。もう……こんな時期なんだな。すっかり忘れてた……」

予備校。センタ試験に向け猛勉強中だった学生が久方ぶりに参考書から目を上げ、響き渡る鐘の音を聞いていた。

ゴォォォォン……ゴォォォォン……

民家で。路上で。予備校で。商店で。飲み屋で。人々は澄んだ鐘の音を聞き、自らの内面へと、過ぎていった一年の記憶へと思いを馳せた。貪婪の町は、ゼンめいたアトモスフィアに満たされていた。

だがその音は今、誰が鳴らしているのか? 電車に乗るときに、運転手が鉄道会社の人間であることを誰もが疑わぬように、それを考えたものは誰もいなかった。


◆ ◆ ◆


ゴォォォォン……

「イヤーッ!」

ゴォォォォン……

「イヤーッ!」

山頂の広場に、白雪がはらはらと降り始めていた。カミヤは寒さに軋む体を動かしながら、慣れない鐘突きを必死に行っていた。

ゴォォォォン……

「イヤーッ!」

ゴォォォォン……

「イヤーッ……!」

あと73回。体は持つだろうか。カミヤは自嘲する。社長職についてからと言うもの、食事に気を遣う余裕などなかった。おかげでブクブクと太ってしまったが、幸い外回りで体は鍛えられていた。

ゴォォォォン……

「イヤーッ」

ゴォォォォン……

「イヤーッ……!」

澄んだ鐘の音色は、イシノ・ストリートの住人に……そして何より、それを打つカミヤの心に響いていた。鐘を一つ打つたびに、心の隅に溜まった淀みが洗い流されていくような気すらしていた。

裏切り。苦悩。侮蔑。憎悪。怒り……罪。この一年、様々なことがあった。到底忘れられぬ苦しみの日々があった。それでも今、それらは既に過去のこと。過ぎ去ったことなのだ。伝統に裏付けられた鐘の音が……幼き日からの反復が、彼にそれを重く実感させた。

ゴォォォォン……

「イヤーッ」

ゴォォォォン……

「イ、イヤーッ……!」

体が震え、よろめく。それでもカミヤは鐘を突く。なぜ、こんなことを? 誰のためにこんなことを? その答えは彼の中にある。誰かのためでもある。だが第一に、彼自身がそうしたかったからだ。

それは会社を設立した時と同じだ。辛い思いをする人などいて欲しくない。それは誰かに望まれた願いではない。ただ彼が、彼の中にある良心が生み出したものなのだから。

「イ……ヤーッ!」

ゴォォォォン……


◆ ◆ ◆


「……ァーッ……!」

ゴォォォォォン……108度目の鐘の音が鳴った。カミヤは荒い息を整えることすら出来ず、仰向けになって転がった。ネオサイタマの夜空は、雲に覆われて淀んでいた。それでも今のカミヤには、ドクロめいた月の輝きが、名も知れぬ星々の輝きがハッキリと見てとれた。

「ハーッ……ハハ……」

流れ弾は結局飛んでこなかった。戦いはテンプルの中だけで行われたのだろうか。ニンジャスレイヤー=サンは。あれこれ詮索する余裕は今のカミヤにはない。今はただ、この場を離れねば。新たな道を見つけ、新たな年を生きていくために。そしていつか再び、あの日々の苦しみを糧に、自らが信じた理念のため、立ち上がるために。

カミヤは疲れた体に鞭打ち、起き上がろうとした。だがそれは敵わず、膝がガクガクと震え、どさりと倒れ伏せた。体の冷えと疲れが、彼を不可抗力な眠りへと誘う。

それでも彼が立ち上がろうとしたその時、カツ、カツ……と石段を踏み締める音が聞こえた。カミヤは朦朧とする視界の中で、赤黒い爪先がすぐ近くに迫ったのを見た。

死神の手は、思っていたよりもずっと暖かかった。


【ビフォア・ザ・ベル・リンギング】終わり


それは誇りとなり、乾いた大地に穴を穿ち、泉に創作エネルギーとかが湧く……そんな言い伝えがあります。