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笑って答えず

一月一話 読書こぼればなし

岩波新書に「一月一話 読書こぼればなし」という本がある。岩波の「図書」に連載されていたエッセイをまとめたもので著者の「淮陰生」は連載当時は匿名だったが、現在では、英文学者の中野好夫氏であることが明らかになっている。出版されたのは45年前の1978年。私は、出版間もないころに購入して読んだのだが、その軽妙かつ切れ味のある筆致と博覧強記ぶりにすっかり魅了されてしまい、こんな文章をかける教養ある大人になりたいと思ったことを覚えている。図書の連載は、1970年から1985年(中野氏が病没する直前)まで続き、その後、「続一月一話」さらには正続をまとめて再編集した「完本 一月一話」も出版されている。

都知事と山中問答

私が初読のときに最も気に入った話の一つが、1964年の東京オリンピック当時に東京都知事をしていた東龍太郎(あずまりょうたろう)に関するエピソード。東知事は1959年から1967年まで2期8年知事を務めたが、3選を目指すかどうかが注目されていたときの話である。以下「一月一話」から引用する。

<引用始>(※初出は1975年3月の「図書」)
そういえば、前東京都知事東龍太郎の退き際に、これまたなかなかにしゃれた一コマがあった。果たして彼が三選に出馬するかどうかが、微妙な関心事であった一時期である。都議会で一議員がその点をついて詰め寄った。ところが壇上の知事、「笑って答えず、心自から閑」とだけ一言、ポツリと答えてニヤリと笑ったという。たちまち議場は騒然となった。笑って答えずとは何事か、都議会侮辱というような声まで起こったらしい。
だが、結局無知無学ぶりを遺憾なくさらけ出したのは議員たちの方であった。「笑って答えず」云々とは、あまりにも有名な詩人李白の「山中問答」の第ニ句であり、つづく第三句は「桃花流水、窅然として去る」とあるのだから、三選出馬の意なしということは明らかだったはずである。
<引用終>

私は、この話がいたく気に入り、その影響で山中問答が好きになって、以降、いろいろなところで、「桃花」や「流水」といったハンドルネームを使っていたのは内緒の話である。

本当にあった話なのか?

実は初読からしばらくの間、ずっと疑問を抱いていたことがある。それは、すごく取り上げやすいエピソードだと思うのに、「一月一話」以外で、別の者がこのエピソードに触れた文章に出会ったことがないことである。「一月一話」の文章も筆者がその場に居合わせたわけではなく伝聞として書かれているところをみると、実際に都議会で交わされたやりとりは、筆者に伝わった時点で少し脚色が入っていたのではないか、あるいは筆者が少し話を膨らませた部分があるのではないか、などとも考えた。実際のやりとりを知ろうとすると都議会の議事録にあたる必要があるが、当時は、都議会の議事録を知らべてこのやりとりに相当する場面を探し出すなどというのはおそろしく手間暇がかかる作業であり、当然そんなことができるはずもなく、そのうちに何とはなしに忘れていったのである。

議事録を検索してみる

なぜこんな話を延々と述べてきたかというと、つい最近たまたま「完本 一月一話」の古本を購入し、ペラペラとめくっているうちに上記のようなこと思い出したからである。40年前と異なり、現在は、都議会の過去の議事録を調べることは自宅のPCの前で簡単にできる。ということで早速調べてみる。
使用するのは、東京都議会が提供している会議録検索である。
「笑って答えず」で検索してみると、問題のやりとりは1966年(昭和41年)12月13日の第4回定例会でのやりとりであることが即座に判明。定例会なので、一問一答形式ではない。議員がまとめていくつも質問をし、最後に3選の出馬の有無を尋ねたのに対し、東知事は、他の質問にまとめて答弁し、最後に次のように答えている。

「重ねて私の出処進退と申しますかについて、お尋ねがございましたが、(中略)しいて何とかいえとおっしやいますならば、まことに失礼でございますが、李白の詩句を拝借いたしまして、「笑って答えず、心おのずから閖なり。」(笑声)」

これをみると「一月一話」の記述と異なり、東知事は李白の詩を引用することを明示して答弁しているので、議員たちが詩であることに気づかず無知無学をさらすといった状況ではなかったと思われる。また、議事録には「笑声」という記録しかなく「騒然とした」雰囲気も感じられない。議事録の流れを見る限りこの後も議事は普通に進んでいる。どちらかといえば、知事のウィットの効いた答弁に笑いが起こったというような感じである。
次の一句が「桃花流水杳然として去る」であることを議員諸氏が把握していたかどうかは明らかではないが、そこまでは意識していなかった可能性が高い。この後も、東知事は何度も出処進退について聞かれているが、一人として「知事が引用された李白の詩の次の一句は「桃花流水杳然として去る」であるが、これは知事が3選には出馬しないという決意を暗に示されたものと理解するが如何」という趣旨の質問をした者はいないからである。

結果として「一月一話」の当該エピソードの面白さはやや減じた形になるが、まあ、この種の乖離はよくあるといえばよくあること。個人的には長年の疑問が解消されたので、結構満足している。

(2023.2.21追記)上記文中、「一月一話」の引用部分が不正確であったので訂正しました。

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