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遠くの夏

8月の書き出し。

これは、私の、2022の、夏の、日記。8月の1日から、8月の31日にかけて、の、思ったこと、書き留めたもの、吐き出したもの、分かったこと、分からなかったこと、混沌としたもの、愛したことやもの、恥ずかしいものやこと、忘れたくない記憶、それら全てをここに認めて、8月1日から8月31日までの、自分が感じたことを書き残し、そして、それら全てをシャッフルして、1日や15日や28日や31日などの意味が含まれた日付を、某日へと置き換え、一つの意味すらもないただの記録へと転換させたもの。「忘れないでいてね忘れないでいるよ」だなんて美しすぎるさ。ある人の、"忘れないでいてね"という切なすぎる願いに対して即座に応じる"忘れないでいるよ"という歌詞には、どうしてこんなにも優しく美しい響きを纏っているのでしょう。まるでそれは、ひこうき雲のようで、晴れわたる青空に、一直線に描き出された夏のひこうき雲で、数分も経てば消え去ってしまう、青空の強さにかき消されてしまう。それでも、「ひこうき雲」と名付けられたことによって、その存在は認識され、ひこうき雲を指差し、「あ、ひこうき雲だ」などと呟いてみたりもする。だとするなら、こんな拙い2022の夏の日記も、僕の23の夏の感情も、「忘れないでいてね忘れないでいるよ」と名前を付けることによって、この夏が、どんな夏であったかを思い出させてくれる、唯一の記録になるのかもしれない。夏が終わり、この記録を読み返した時に自分の中で沸き立つ感情こそ、僕は"想起"と呼んでみたい。

8月某日、時刻は23時48分。

眠い。58分の短編映画を観ている途中に寝てしまった。内容は覚えちゃいない。明日観るにも、ちょいと面倒だ。2年前の8月、僕は人生で最大の失恋をした。ごくごくたまに、あの頃の恋愛が夢に出てくる。最近はようやく人を好きになれた。いや、好きなのか。まだ気になっている段階ではないのか。などと、自問自答を繰り返している。好き、ということに遠ざかっていたせいだろうか、まだ素直に「好き」という気持ちを飲み込めないでいる。自分自身に対する照れ隠し。今日は好きな子のインスタグラムが更新されていた。なんだか嬉しかった。楽しそうで僕も楽しかった。ほら、やっぱり好きじゃん。なんてね。8月はランニングをしよう。ランニングという口実をつけて、海に行きたい。毎日、海へゆきたい。黄昏の夜。

8月某日、時刻は21時23分。

メガネを買った。以上。なんだか何もする気がない。本は読めない。音楽は聴けない。映画は観れない。あぁ、こんなにもくだらない夜には、なにをして時間を弄ぶのがよいのでしょう。海へは行かなかった。行けなかった。負けるしかない。今日は面倒くさいに敗北する。シャワーもしないで眠りにつく。なんて書いて、眠れずにいる。どうも夏は失恋の匂いがする。暑くて暑くて、それでも夜は寂しくて、真夜中に泣きじゃくった記憶が突如として襲いかかってきて、つまりは暇なんだな、と。あぁ、今日は好きな子のインスタグラムが更新されていない。退屈で、また過去に引きずり込まれそうだ。

8月某日、時刻は19時43分。

波の音が聞こえる。潮の匂いが漂う。あたりは真っ暗。なんともね、まだ明るい時間帯に海へやって来ては、本を読んだり、音楽を聴いたり、そしてどれもやることがなくなり、こうしてくだらない文章を書いている。たまに、虫に噛まれる。刺される、ではなく、噛まれる。痛いのだ。おそらくちょっと大きなアリか、1〜2センチほどの海によくいるゴキブリみたいなやつ。蒸し暑い。低温サウナのように、じわりじわりと汗が吹き出てくる。もう書くことない。好きな子と一緒に○○に行きたい。ドライブもしたいけど、公園でのんびりもしたい。川沿いの散歩もしたい。僕は歩くのが速いけれど、小さく進む君の歩幅に合わせたい。それは優しさではなく、ただの願望。君の歩幅に合わせたいという願望こそが、恋。なんて、そんなことを呟いてみたりもするけれど、だいぶ気持ちが悪い。みんな何を思っているのだろう。みんな何を書きたいのだろう。恋愛か、仕事か、家族か、過去か、現在か、未来か、人生か、希望か、絶望か。それぞれの文章が読みたい。では、私のこの日記は、一体なんなのだろう。どれに属するのだろう。考えてみる。けれども、どこまでいっても、何を書いたとしても、ただの日記。潮が満ちて引くように、感情も湧いては消える。砂浜に書いた落書きは、波にかき消される。けれどもこの日記は、砂浜ではなく、保存可能な物体に書き込んでいるのだから、残る。残るのがいいか、消えるのがいいかは別として。あ、いや、こんな小っ恥ずかしくて気持ちの悪い文章なんてのは、消えるが吉なのは間違いないのだけれど。

8月某日、時刻は22時48分。

さてさて、今日も書く。何を書こう。何もないけれど。今年の夏は、高校野球を観に行こう。とびっきりの、甲子園に、ゆこう。楽しみだ。ずっとずっと野球をやっていた僕にとって、やっぱり甲子園は特別な場所だけど、「甲子園に行きたい!」だなんてそれほど強くは思っていなかっただろうし、「甲子園を目指します!」などと言ってはいたものの、内心はいかに。でも、負けたくなかったな。試合に負けて、高校野球が終わってしまうことが、嫌だった。だから、それらを先延ばしにするための目標が甲子園、ということなんだろうな。だからこそ、地方大会を好んで観に行くんだろうな。でもやっぱり、甲子園には、行かなくちゃ。新しい衝撃を、見届けに、行かなくちゃ。思い出の店に足繁く通うことも自分にとっては大切なことだけど、新しい店を開拓していくのも自分にとっては必要なこと。あぁ、まだまだこれから!そんな気持ちで毎日を過ごしていきたい。

8月某日、時刻は25時15分。

今日は好きな子からのLINEが来た。嬉しかった。とまぁ、こんな感じ。サウナに行った。12分サウナ、2分水風呂、15分外気浴のサイクルなんだけど、まさに整いを発揮する外気浴の際、好きな子が頭に浮かんでくる。ボーッと、ただただ無心になりたい外気浴で、好きな子のことを、考えてしまう。するとどうだろう、外気浴で副交感神経優位な状態に持っていくはずが、好きな子のせいで、鼓動が速くなる、緊張が激しくなる。サウナ、水風呂、外気浴と、全て交感神経優位状態。そんな具合で、ぜんぜん整わなかった。あとはなんだろう、今日はこれとは別にちょっとしたエッセイを書いた。最後の段落では、パーティーをしよう、というような内容でまとめ上げた。そのパーティーをしよう、は、「20代で得た知見」という本の中に、似た内容が書かれてあった気がした。気がしただけ。あの本を読んだ時、いや、読む前から、なんだこの文章たちは…と思っていた。どうしてこんな文章が書けるのか、分からなかった。いや、文章だけではない。何をしたらこんな思考に行き着くのか疑問だった。Fさんは変わり者だ。変わり者というより変人だ。変人でも足りない。変態だ。文章を書く人は想像力が豊かである、などと言われるけれど、Fさんに至っては想像力ではなく、妄想力なのだ。変態的な妄想力こそが、あの、Fさんにしか表現できないであろう言語で、圧倒的な納得感を誇り、各ページに刻み込まれている。あぁ、私もそんな人になりたい。

8月某日、時刻は24時06分。

どれどれ、今日も書いてやる。昨日は書いていないけれど。んー、今日は夜更かししてる。明日は仕事。でも、かなり起きてやってる。悪いことをしているな、なんて思っている。クーラーの風が心地よい。ランニングをした。好きな場所を見つけた。扇橋ってところ。その名の通り、橋なんだけど、東京の夜景も望めるし、荒川の上では夏風が微笑むし、そして何より、たくさんのものに溢れた街で、無心に、ひとりでに、ホッと、一息をつける場所なのである。そしてあろうことか、扇橋からはスカイツリーと東京タワーの両方が見える。スカイツリーは散々見ているけれど、悪の根源である、この大都会が顕す闇の中心に君臨する東京タワーが、うっすら見える。これが、非常によい。というわけで、今日は短めに書いて、さっさと寝ることにしよう。音楽をかけて、眠りにつこう。さぁ、今宵のはじまりだ!

8月某日、時刻は24時18分。

忘れてた。今日も書かなきゃ。汗汗。これから歯を磨いて寝る。さっきまでは本を読んでた。やっぱり自分は凝り固まっているんだと思った。分からなくなりたい。それは不快で、不愉快で、理解に苦しむ溝に落ち、腑には落ちず、どんどん深みの沼に入り込み、抜け出せなくなるかもしれない。そんな面倒なことをしてまで、分かりたいものがあるのだろうか、とも思う。それでもまだ、いまの自分には、将来のため、だなんて言ってしまえば途端に安っぽく聞こえてしまうけれど、そうだな、もっともっといい文章を書けるようになりたい。ただ、その一心である。だからこそと言ってしまおう、だからこそ、私は分からなくなりたい。よし、寝よう。みなさんよい夜を。おやすみなさい。

8月某日、時刻は23時50分。

そういえばこの日記をつけ始めてから、寝るのが遅くなってしまった。以前は23時には寝ていたのに、今では全然起きていて、日付を跨ぐ頃に書いている。というどうでもいい発見と、あとは、自分が写っている写真は嫌だな〜と思ったりもする。もちろん、盛れていればいいけど。でも、あぁ、自分って、他の人からはこんな風に見られてるんだ…って思うとちょっと悲しくもなって、自分が写っている写真だけ見ないこともある。だから今度からは、撮られる側じゃなくて、撮ってあげる側になろう。そうしよう。撮ってあげる、だなんてちょっとおこがましいけれど。よし、今日も寝る。今日はサウナに入ってきたからすぐに寝る。夜更かし厳禁。もう少しでお盆休みだけど、だからかなり楽しみなんだけど、どうせ休みなんてのは一瞬で過ぎ去ってしまって、世間的にはお盆が明ければ夏終了の雰囲気があって、明日からの5連休が終われば、夏が、終わっちゃうのかな。寂しいな。それでも自分はどこかで必死の抵抗をして、その抵抗は太陽や海とも調和して、この夏の、最後の最後の輝きを放つに違いないだろう。さて、それはいつ訪れるのか。いつやってくるのか。答えは分からないけれど、自分から創造しにいかないと。

8月某日、時刻は15時58分。

イヤホンからは折坂悠太の"さびしさ"が流れている。この夏の帰省は、山形帰省のテーマソングは、折坂悠太に決めた、なんて。自分は人材の会社で働いていて、夏休みをとって、今日は15時半に早退し、今は新幹線。自分が休んでいる期間も普通に仕事は進んでくし、でもそれら全てをスタッフに任せ、自分は休む。そしてこれは、当然の権利であると思っていた。働く自分にとって、至極当然の、真っ当な、権利である、と。いや、その権利に変わりはないのだけれど、こうして、「いってらっしゃい」「お気をつけて」「ゆっくり休んでください」などの声をかけられたならば、なんだろう、自分がゆっくり夏休みを取得できることへの感謝というか、てか、この拠点の社員は自分しかいないし、拠点長などいう滑稽なものになってしまっているけれど、それら全てをスタッフに任せ、自分は休みを取る。なんだろう、これはスタッフに対する感謝である。いや、スタッフ、などとは言えない。弊社で働いてくださっているスタッフさん、であり、夏休みを取る自分を快く送り出してくれるスタッフさん、そのスタッフさんの「おかげ」なのである。もちろん、休みを取るなどいうことは当然の権利であるけれども、その権利を行使するにあたって、自分は、人のあたたかみを感じた、ぬくもりを感じた、やさしさを感じた。これは忘れてはいけないな、と、強く、深く、思った。だからこそ、この夏休みは精一杯に楽しもうと思えるし、山形土産をたっぷりと買い占めて、自分が長を務める拠点に戻ったら、ありがとうございました!って皆さんに山形土産をプレゼントしとうございます。ありきたりだけれど、初心忘れるべからず、というか、感謝、というか、なんだろう、人のまごころなのかな、そんな言葉で表すにはちょっと照れくさいけれども、総じて人の優しさというものを、やわらかく、しなやかに、感じることができた。忘れたくないからここに記す。

8月某日、時刻は25時21分。

本日2回目の日記。追記、かな。内容は違うけれど。今日は友達と地元の中学校で話した。あの暑くて熱い2013年の8月を、同じ温度で、景色で、目線で、思い出せるのは彼しかいないのかもしれない。2013年の8月はいつまでも互いの心に、それはそれは深く、真髄、とも言えるほどに、刻み込まれているのだろうな。あの夏を超える、夏を、いつか。

8月某日、時刻は10時45分。

夏のハイライト。それぞれの夏に、それぞれのハイライトがあるように、今年の夏もまた、今年の夏のハイライトなどいうものが生まれては過ぎ去っていく。今日なんかは、2022の夏の、ハイライトとして、あぁ、そういえば2022の夏はこんなことしてたんだな、なんて思い出すことのできる1日になってくれたのだろうか。こんなにも必死になって毎日を生きているのに、幸福ではない明日が突然やってくる。こんなにも必死になって自分を生きているはずなのに、人生を生きているはずなのに、結局のところ、何も分からない。自分すらも、上手く乗りこなすことができない。23年間も自分を生きているはずなのに、結局は扱いにくいだけで、そんな自分が嫌になる。言えなかったことがあり、言いたかったけど言えなかったことがあり、いや、言えなかったこと、言わなかったことにこそ、自分の本当の気持ちが隠されているのだとも思う。そう。自分がよく文章を書いてSNSに載せていたりもするけれど、本当のことは、いや、言っているはず、であるけれども、もちろん、押し殺している部分もあって、羊文学曰く、本当のことは後回し、なのです。本当のことは、後回しにしちゃうのです。だからこそ、言えなかったこと、言わなかったこと、気づかなかったこと、感じられなかったこと、それらは、言えたこと、言ったこと、気づけたこと、感じられたことよりも圧倒的に多いわけで、だからか、見えないことにこそ真実があるのかもしれない。なんて。

8月某日、どこかの某日のP.S.

今までもこう、忘れることはできないな、忘れたくはないな、と思う瞬間が、平平凡凡な毎日の中には転がっていて、特別な日々の中には多数存在していて、夏の夜の匂いはあの頃と変わらず、記憶は薄れても、深夜のコンビニで急に引き戻されたのはきのこ帝国だったような。あぁ、過去たちは曖昧になりながらも美化されてゆく。それでも忘れてしまった日々、とうの昔に手放した日常、こぼれ落ちた過去、などなどが、自分に限らず、あらゆる人に、それはそれは数えきれないほどに経験のあることで、そして今は、「失ってしまったものたちを、それでも愛しいと思えるように」なんて、自分が勝手に組み立てたフレーズでうまい具合に自己解釈しているのである。そうです、「失ったものもあるけど得たものもある、日々を生きてきた中で」なんだと思うし、あぁ、今はそんな自分が得てきたものたちに囲まれて、とてもとても幸せでね、満たされてしまって、今日という1日なんかは特に、「忘れることはできないな」そんなことを思っていたんだ。
・金木犀の夜/きのこ帝国
・Both Sides Now/Emilia Jones
・茜色の夕日/フジファブリック

8月某日、時刻は25時48分。

酔っている。酒に酔っている。もう無理。今日は書けない。ごめん、夏の日記。でも、酒に酔うと無性に好きな子に会いたくなるし、今日の飲み会兼花火大会なんてのは、ほとんど恋愛の話してたな。だからもう今日は終わり。はやく音楽を聴こう。もういっそのことみんな、幸せになればいいのに。

8月某日、時刻は19時00分。

愛してるだなんて、言い訳みたいだね。

8月某日、時刻は21時44分。

実家の庭からは、夏の虫たちの大合唱が聞こえてくる。網戸にはしているけれど、風は靡いてこない。自分、めちゃくちゃ好きだな。好きな子のことが、めちゃくちゃ好きだな。久しぶりの感情。めちゃくちゃ好きだな、めちゃくちゃ好きになるって、めちゃくちゃこんな感じなんだな。そっか、そっか。昨日は高校時代の友達3人と飲んで、結局はほとんど恋愛話の記憶しかないんだけど、なんだかその時に思ったのよね、あ、おれ、好きな子のこと、めちゃくちゃ好きだな、って。そして、友達の話を聞いていて思ったのが、やっぱし、誰かに取られたくはないなって感情。いや、取られたくないっていう表現はちょっと雑。そもそも自分のものではないし、付き合えたとて、自分のものになるわけでもないから、今の表現には語弊がある。だからちょっと、嫌い。話を戻す。もし、自分の好きな子が、他の誰かと付き合うとか、その他諸々になっていった場合を想像すると、自分、めちゃくちゃ落ち込むだろうな、なんて思ったっけ。「なんて」では済まないくらいに、めちゃくちゃ思ったっけ。だから、そんなことを想像していたらね、あぁ、俺はその子のことが、めちゃくちゃ好きなんだな、と。それはそれは、自分がその子のことを好きであるということを認めざるを得ないほどに、めちゃくちゃ好きでした。はい。自分は好きな子のことがめちゃくちゃ好きです。はぁ。変なこと書いちゃったし。これは公開することを前提として書いている日記だから、こんなに赤裸々に書いて大丈夫かな、と不安になる。でも、まぁ、こんな中盤まで読んでくださっている人は、なんとなく信頼できそうな方だろうからな、というか、本当に、拙い日記をここまで読んでくださってありがとうございます。橋本直弥、めちゃくちゃ喜んでます。そして、僕の好きな子がここまで読んでくださっていたら、めちゃくちゃ嬉しいです。ありがとうございます。めちゃくちゃ好きです!恋について思うこと。恋愛について思うこと。結局はみんな、どの年齢でも、どの年代でも、「好き」という感情は、単純で、真っ直ぐで、「好き」って小4くらいから変わらないんだな。だから、こんなにも純度100%すぎる感情を抱くことができていて、なんだ自分、かわいいじゃん、なんて気持ちの悪いことを思っている。

8月某日、時刻は8時26分。

あぁ、嫌だな。明日からの仕事、とびっきりに面倒くさいな。そりゃあ5連休もすれば、こんな気持ちになることは分かりきっていたさ。あぁ、面倒くさい!行きたくない!ずっとずっとこの部屋にいて、適当に散歩したり、ヘッドホンで音楽を聴いたり、本を読んだり、甲子園見ながらスイカを食べたり、あー、働くという責任から逃れ続けながら暮らしたい。「社会人なんてやるもんじゃねぇ」わりかし真面目に思っている。でもなぁ、たまに、ごくごくたまに、働く自分ってカッコいいな、と、思うこともある。仕事内容はどうあれ、仕事の仕方はどうであれ、ただただ働いている、という事実だけで、自分、カッコいいじゃん、なんて思ったりもする。まぁ、そう思っているのは自分だけだけど、そう思えるだけで「仕事がんばるか!」となるわけではなく、「超絶面倒だけど仕事に行ってやるか…」と渋々に思えてみたりもする。別に目を輝かせて仕事する必要なんてないさ、満員電車で死んだ目をしながら通勤してもいいはずだよ、だって、働いているってだけで超絶カッケェんだからな。それでも明日の仕事は面倒くさい。仕事になんて行きたくない!

8月某日、時刻は10時09分。

🤦 こんな感じの気分。

8月某日、時刻は15時20分。

すごい。とある人の文章を読んでいたら、なんだか涙がでてきた。それはインスタグラムもそうだし、noteもそうだし、なんだか涙がでてきた。なんでだろう、自分で自分が分からないまま生きていて、いろんな、とか、たくさんの、では、括りきれないほどの感受性だったり、頭の中だったり、そんなものに埋め尽くされていて、うざったらしく、振り払うように、それでも離れてはくれず、素直になれたらいいのにな、と、半ば諦めのように書かれてもいたのだけれど、自分にはなんだか、その、ぐちゃぐちゃしたものが、ごちゃごちゃになっているものが、すごくすごく尊いものに、その人にしか持ち合わせていないものに、見えてしまった。自分にとっては、初めての気づきだった。すごいな、と、思った。なんだかその人が、この嫌いな世界を、好きな人たちのために、そうして、好きな人を好きでいる好きな自分のために今でもちゃんと生きている姿が、とても力強く、真っ直ぐで、愛おしかった。そんな文章に、心が震えてしまった。

8月某日、時刻は5時51分。

🤦 こんな感じの気分。また、やってしまった。はぁ、なんでこんなにも、自分の気持ちを伝えては、後悔し、自分の感情を書き殴っては、後悔するんだろう。その後にやってくる恥ずかしさ、というか、我に帰る感じ、というか、んー、でも自分は、伝えないということができない、書き殴らないということができない、湧いて出てきたものは皆に見せねば気が済まぬ。そうして、人に伝えては、皆に見せては、翌朝あたりに後悔をして、後悔が自分を辱め、あぁ、自分って死んだ方がいいのかな、と、わりかし本気で思ってしまうのであります。めでたし。めでたし。

8月某日、どこかの追記。

なんだ、自分、けっこー、分からないままだな。こんな、二日酔いにも似た後悔が翌朝を征服していて、気持ちの悪い後悔に身体が支配されていて、一筋縄ではいかないというか、たった一つの感情に纏め切りたくても、たった一つの感情に割り切りたくても、そうして、それを文章に書き殴って決着をつけたとしても、こんな感情が、自分の中には充満していて、なんだ、自分、分からないままのものを、分からないままで保っていられるじゃん。なんだかよかった。そして、伝えるのが下手くそで、結局は堂々巡りでしかなくて、すごく、すごく、人間っぽい自分がいて、嬉しくなった。

8月某日、時刻は22時54分。

今日は、頑張りたいと思っているのに、頑張れなかった。もう寂しくなんかないぞ!そう割り切れているはずなのに、ずっとずっと寂しかった。東北にはすぐ帰れるからその時まで、と踏ん切りがついているはずなのに、東北の姿を猛烈に思い出していた。どうせまた会えるはずなのに、「どうせ」などでは収まるはずがなく、一刻も早く会いたくなってきた。矛盾に溢れている世界と、その矛盾に溢れた世界を一括りに見てやろうとする自分がいる。でも結局は、自分も、矛盾に、囚われたまま。どっちつかずの今を、生きている。あといったい、この生活がどれくらい続くのだろうか、とは思いつつも、特に何の変化があるわけでもなく、昨日が終わり、今日が過去になり、明日が来る。ただ、いっさいは過ぎていくのであります。あれ、今日の文章も、そんなに面白くはないな。いつも通りか。眠くなってきた。寝よ。そしてもう、なーんか、どうでもよくなってきちゃったな。あーあ、もうどうでもいいから、しばらくは黙っておくことにしよう。この世界と、自分との、距離を、とりたくなっているから、あー、もう寝よ。

8月某日、時刻は20時09分。

最近はなんだか似たようなテイストの文章でごめんなさい。でも、寂しいんです。それだけは、分かってください。寂しさに囚われているんです。寂しさが身体を離れないんです。寝れば忘れる、ではないんです。筋トレしてもなおらないんです。これは病気です。そして、その寂しさを、僕は可愛がってやりたいのです。花を愛でるように、僕はこの寂しさに水をやり、太陽の光を浴びせ、そしてやっぱり、愛でてやりたいのです。なんて。海にきた。立ち入り禁止の、専門的な人しか立ち入ることのできない監視をする3メートルくらいの高い塔に登っている。勝手に登ってごめんなさい。最近は、海にいる人が増えちゃった。夏だから仕方ないか。特に増えたのは、カップル、もしくは男女の4人組。でもね、僕はね、ずっとずっと前からここにいたんだよ。寂しさを抱えながら、その寂しさをホテルの部屋ではどうすることもできなかったから、海とならばどうにかできるかな、なんて淡い期待を背負いながら、ずっと前から、みんなが「夏だ!海だ!」なんてはしゃぎだす前から、ここにいたんだ。だから監視塔に登ってしまうのも、許しておくれ。ホテルから出て、数メール歩いて、見覚えのある匂いが漂ってくる。あれ、この匂い、いつの匂いだっけ。どこで嗅いだ匂いだっけ。高校時代だっけ、山形だっけ、と、自分の過去を回想させていると、それは、大学時代のバイトの後にやってくる外の匂いだった。ちょっとだけ、懐かしんだ。同時に、こうも思った。「あぁ、最も記憶に残るのが匂いならば、匂いを忘れてしまった時、自分の前に漂う匂いを思い出せなくなってしまった時こそが、いちばん寂しいんじゃないのかな」って。現に、今日の外の匂いは、すぐに思い出せなかった。でもね、本当は、もっとも悲しいのは、この匂いが自分の中に残らないことなんじゃないかな。過去に囚われやすい自分だから、なかなか今を生きることのできない自分だから、今のこの匂いを、今しかあるはずのない匂いを、気にも留めず、過去の匂いに引っ張られながら、大切なこの瞬間を、見過ごしているんじゃないのかな、なんて思ってみたりもした。カップルが花火ではしゃいでる。あのカップルは、たとえ別れたとしても、いつかまた、今日のこの瞬間を思い出してほしいな、なんて願ってみたりもした。音楽を聴いている。「光の方へ」が流れてきた。いい歌だね。分かってる。こんな夏の終わりには、もう踊って、寂しさを身体で表現して、来年の夏、だね、なんて、ひとりで祈ってみたりもするんだね。伝えない方がよかった気持ちなんてのは、たくさんある。言わない方がよかった想いなんてのは、ごまんとある。そのほとんどが恋愛なのかな、などと思ってみたりもするけれど、恋愛相談なるものをしている人を見て、そうして、相談された相手は、「言っちゃえよ!」みたいな訳の分からないことを抜かしていて、それはもう、「やっちゃえ、日産」みたいなテンションで、「当たって砕けろ!」のような現代とはまるでかけ離れた思考で、アドバイスなんかをしている。そうして、アドバイスされた本人もその気になってしまって、つまりは勘違いをしてしまって、あれ、いける?などといい気になって、伝えて、玉砕し、アドバイスをしてもらった人に対してダメでした、などのLINEを送っては、なんでだろうね〜と、互いにハテナの中に居座り続ける。滑稽。だってこの世には、伝えない方がいい気持ちなんて、たっくさんあるんだから。言わない方がいい想いなんて、たっくさんあるんだから。そういえば自分も、前に付き合っていた彼女から別れを告げられ、理由を聞くと、他に気になる人ができた、とかなんちゃら言われ、あぁそうか、と、なっていたのだけれど、そして、その時は、いい男になって、1ヶ月後にはもう一度告白してやる!なんて意気込んでいたけれども、1ヶ月後にはそんな想いはなくなり、結局は告白どころか連絡も取らず、泡に消えていったっけ。でも自分は、気持ちを、想いを、伝えなかったことを、言わなかったことを、ちっとも後悔していない。むしろ今は、あの時、図に乗らなくてよかった、と、思っている。それでも、恋なんてのは、やはり、伝えるがいいのだ。言うがいいのだ。それは誰かに取られる前に(この表現は嫌いです)とかいう理由ではなく、自分の中で抑えきれなくなった感情を、相手に捧げる想いが自分の中ではどうしようもないくらいに肥大化し、君に対する愛だ、なんて大正解すぎる理由をつけながら、告白しているのである。そんな人たちを、すげぇなぁ、と思いながら、でもやっぱりそうでなくちゃ!とも思いながら、自分も、恋をしている人からアドバイスを求められたら、「やっちゃえ、日産」みたいに言うだろうし、恋をしている自分がそう言われたら図に乗って、「好きだ!」なんて叫んでみたりもするのだろう。だからそう、恋をしている人、好きな人がいる人、は、めっちゃ可愛い!素晴らしすぎる!ねぇ!君たち!そして、恋をされている人もまた、愛を受けている人もまた、その人の魅力が、あぁ、つまりはそういうことだね。もうなんでもいいから、みんな、幸せになってほしい。と、これは全くのシラフです。誰のために書いているわけでもなく、ただ今の自分の中にある気持ちを、書き殴っているだけなのです。それにしても今日は書く量が多い。海に来ちゃったから。

8月某日、時刻は21時49分。

はぁ、さいあく。いや、さいあくでもないんだけどね、快か不快かでいったら、不快。潔癖症が入っている自分にとっては、ちょっと嫌悪のあるホテル。そう、自分は少しの潔癖症がある、と自分では思っている。でもその潔癖症がどこで現れるかはイマイチ分からなくて、ただ、部屋とか水回りとか家の中に現れる気がする。誰かの手作りの食べ物も食べれるし、友達のお母さんが作ったおにぎりとかもいけちゃうタイプ。銭湯もバンバン行くし、シャワーもしないで寝ることもよくあるし、でも、部屋だけは、汚されたくない、もしくは、綺麗なままでいたい、という感じ。だからね、今日泊まっているホテルなんかは、正直、ちょっとムリ。まず、シミがすごい。床のシミがすごいし、壁もなんだか汚れているし、ベッドの下のほうはボロボロでほつれてるし、大丈夫?この枕、汚くない?え、こんなところで過ごしたくないんですけど…という、まさに現代病ですかね、贅沢いってすみません。この部屋で食べた夜ごはんは美味しく感じられなかったし、虫が出てくるんじゃないかなって怯えてるし、なんなら虫じゃなくて蛇とかが出てきそう。いや、そんな生き物よりも気になるのが、この部屋にごびりついたシミなのだ…ホテルの選択ミス、大人しく東横インに泊まっていればよかった。文章も愚痴だらけ、愚痴だらけ、愚痴だらけ、はぁ、すみません。以上です。もう寝ます。おやすみなさい。とかいって、西成の1泊1200円の格安ホテルとかには全然泊まれるんだけど。

8月某日、時刻は11時14分。

さんぽ、おさんぽ、なう。散歩の途中に、書いている。そういえば、会社の同期たちはみんな真面目に仕事をやっていて、たぶん、自分が、いっちゃん不真面目。加えて、もっとも仕事ができない。いや、ポテンシャルはあるんだけど、でも、やる気と今の業務量が、なんとも言えなくてさ、などの言い訳を嗜みながら、仕事をしています。はい、ポテンシャルはあるとか思い上がってすみません。そんなものは一切ございません。自分が力を注いでいることといえば、こんな風に文章を書くこと、本を読むこと、音楽を聴くこと、くらいでさ、それでも休日は東北に帰ってしまうし、なかなか東京を面白い場所だと思うことができなくて、なんだかそれは、自分の好奇心が薄れていたり、自分で自分を突き動かそうとする気力がなくなっていたり、そんな自分に対して、あーあ、と、落ち込んでいる。上京した当初は、POPEYEやBRUTUSに載っていた喫茶店とか古本屋とか古着屋とかを訪ね歩いては、「雑誌みました!」と声高々に想いを告げていたような。だからね、仕事を頑張ってはいなくて将来が読めない、つまりは財力に乏しくなるであろう自分にとっては、そういった好奇心に突き動かされてゆくことが、非常に大切だと思う。明日は、青山ブックセンターに行く。久住昌之さんのイベントに行く。そして9月は、仙台で、岡本仁さんと「booknerd」の店主のイベントがあるみたいだから、それも行く。自分の身をそういったところに送りこんで、もちろん、緊張もするし億劫な時もあるけれど、でも、行ってみたいと思ったところには行かないと。そして、社会で負けた自分の、財力に乏しい自分が縋るべきところ、に、しっかりと縋っては、自分らしく生きてゆきたい。

8月某日、時刻は11時29分。

あぁ、なんだか自分は、卑しい気を纏ってしまったみたいだ。

8月某日、時刻は14時37分。

やぁやぁやぁ、昼休み。金がない。お金がない。本当にない。いや、実際ある。貯金ある。社会人になってから貯金を始めたけれども、1年ちょっとで、120万円は貯まった。すごい。でも、「貯金=使えるお金」ではないんだよな。うん、だから、使えるお金が、自由に使っていいお金が、ない。のくせに、自分はお金を使いたがる人だから、お金を必要とする遊びをしたがる人だから、東北帰省もそうだし、本屋に行って本を買うこと、映画館に行って映画を観ること、居酒屋に行って酒を飲むこと、喫茶店に行って珈琲を嗜むこと、全てに金がいる。あーあ、趣味が鬼ごっことか隠れんぼとかドッチボールだったらよかったのに。自分には金を貯めねばならぬ理由がある。1つ、100万円を貯めて世界を旅する。100万では足りないかもしれない。けれども、最低金額は100万円。社会人4年目が終わったらリタイアして、ふら〜っと、旅をする。これ、夢。2つ、100万円を貯めて仙台で暮らしたい。何もしない。金が必要になればをバイトする。仙台と息づいた暮らしがしたい。仙台の様子を眺めて生活がしたい。仙台で地に足つけた日常を送りたい。そして、毎日を日記に認めたい。これ、理想。だからまずは、400万円が必要なのだ。後者の理想は置いといて、400万円を貯めて、そのうちの100万は旅、300万は貯金。旅から帰ってきた後に、就職 or のほほーんの2択で迷うだろうから、就職するにしてもそんなに早く仕事が見つかるとも思っていないので、(それは第一に、自分の社会人スキル、第二に、自分の人間性、第三に、27で直近1年はほっつき歩いてました…と無精髭を生やしたダメ男を雇う会社はあるのだろうかという疑問や不安)だから、400万円を貯めたい。話を戻す。金がない。明日はイベントに行きたい。欲しい本もある。観たい映画もある。東北に帰りたい。甲子園にだって行きたい。沖縄でのんびりもしたい。秋服が欲しい。居酒屋も行きたい。盛岡も行きたい。好きな人とデートがしたい。全てに金がいる。よし、そうなったら、明日からの土日は、近くの公園で鬼ごっこと隠れんぼとドッチボールをしてみよう。案外それが、輝かしい青春であったりもするからね。

8月某日、時刻は15時17分。

肌に触れた風が、まだ8月のそよ風が、少しだけ近づいている、秋の気配を、金木犀の香りを、運んできたような気がした、気がした。

8月某日、時刻は18時14分。

仕事が終わった。今日は金曜日なので東京のアパートに戻る。アパートとは言っても自宅とは思えない。昨年の4月から住民票はあるものの、通算で3ヶ月ほどしか暮らしてない。では、どこが今の自宅なのか。分からない。もはや、ない、まである。小田急線の快速急行新宿行きに乗っている。揺られている。本を読んでいた。が、電車から眺める外の景色が好きなのだ。風景が懐かしいのだ。田んぼが映る。奥には、一戸建ての住宅街が映る。さらに奥には、壮大な山々が映る。そんな景色や風景を素通りしてはいけないなと思い、エッセイを読むのをやめ、電車の外を眺めている。荷物棚にはスーツケースを積んでいる。棚から5センチほど、はみ出している。落ちてきたらどうしようと不安になる。隣に座っている人に当たってケガをさせたらどうしようと不安になる。慰謝料ってどのくらいかな、と考える。かといって、はみ出したスーツケースをこの窮屈な状態から立ち上がって、はみ出さないように押し込んでやるのも億劫だ。祈る。スーツケースが落下しないことを、祈る。さて、右隣には高校生のカップルがいる。互いにギターケースを狭い車内の足元に置き、彼氏であろう男性が、彼女であろう女性にもたれかかっている。彼女であろう女性は、彼氏であろう男性の肩に手を回し、ちょっと格好がいい。なんだかその彼氏であろう男性のことが、羨ましくなってきた。自分も、彼女であろう女性にもたれかかりたい。犯罪。彼女であろう女性は、次の駅で降りた。あぁ、そうか、彼氏であろう男性よ、君も寂しかったのか。こんなことを書いているうちに、酔った。どうしてだろう、小田急だけ、酔う。だから僕は、小田急線のことが、ちょっとばかり嫌い。

8月某日、時刻は18時36分。

小説が、読めない。いや、選べない。どんな小説を読みたいのか、分からない。限られた予算内で、限られた自分の小遣いで本を買う時、絶対に面白いものを引き当ててやろうという殺気だった感情に駆られる。遂には、自分の読みたい小説が分からなくなり、外れのないエッセイを買い、読みやすい詩集を買い、小説を手にする自分の姿は遠のいていく。自分は今、どんな小説が読みたいのだろう。故郷を懐かしむ青年の物語か、淋しさに暮れた老人の物語か、仕事を投げ出し旅に出た若者の物語か、恋に燃え上がる男性の物語か。どんな主人公に今の自分を投影させるのがいいのだろう。深く、真髄にまでも届くような読書体験を、探している。そんな欲張った思いがあり、なかなか小説を買うまでには至らない。本当は、手に取った本を買いたい、飛び込んできたタイトルの本を買いたい、意味など考えずにレジまで本を持ち運びたい。それができない。だから、今は、好きな作家のエッセイを買って、好きな作家が好きな小説を買おうとしている。西加奈子さんの好きな作家は海外の人。海外文学は苦手である。カフカで面を食らった。読み進めることができない、頭に入ってこない、「海外文学=難解」となり、避け続けてきた。でも、西加奈子さんが言うなら、西加奈子さんの好きな作家を、自分も手に取ってみたいから、やっぱり明日は青山ブックセンターに行こう。

8月某日、時刻は18時56分。

筋肉があって、よくいる筋肉魂で、筋トレこそが最高の至福、いつでもハッピー!みたいな人にはなりたくない。本当になりたくない。というか、なれない。なりたくても、なれない。だって自分は、ハッピーとは対極にいる側の自分だから。人見知りはするし、人を羨むし、人の成功に嫉妬もするし、なんならたまには失敗しろよって舌打ちもする。笑顔は苦手だし、愛想笑いと作り笑いのオンパレードだし、その顔が嫌いだし、自分の顔から繰り出される表情の中で最も不細工だと思うし、不吉で不気味だと思う。そんな人間が、今は筋トレをしている。ダイエットがてら。でも、いくら筋トレをして筋肉がついたとしても、年がら年中ハッピー野郎にはなりたくない。(いや、そんな人たちも、年がら年中ハッピーなわけではなく、ちゃんと見えないところで悩みもするし挫折もすることもあるし落ち込むこともある。そして、そんな姿を人には見せない強さを持っているから、本当に最高な方々であるのは理解しているつもり、あくまでもつもり、なんだけど)ハッピーじゃない人間は、無理にハッピーになろうとせず、拗らせた感情を、屈折した世の見方を、留め、育て、放出するがよい。その放物線は、同じようにハッピーとは対極にいる人こそを救うのだと、自分は太宰治から学んだような気がしている。

8月某日、時刻は19時17分。

何、今日、めっちゃ書くじゃん。やばいほど書くじゃん。暇なの?暇です!なら、書くしかないね(憐れ)みたいな会話を自分の中で繰り広げている。自分がその場にいない時に、誰かの頭の中に、胸のうちに、心のそばに、図々しさは微塵もなく、そっと優しく、居座ることができたなら。なんて。ストーリーやツイートで発信をすれば、見た人は、「おぉ、はしもつじゃん」となるのは当たり前で、だから、その、はしもつを一切感じさせない状態で誰かの頭や胸や心にそっと居座ることができたなら、現れることができたなら、とても喜ばしいことなんじゃないのかなと思う。そんな「はしもつ」になるには何が必要なのだろう。みんなは、どれくらいの頻度で、「はしもつ」を思い出してくれるのだろう。なんて、承認欲求の塊みたいなことを呟いちゃった。けれども、自分がそばにいない時に、他の人が自分のことを、ちょっと愉快な気持ちで思い出す瞬間があるならば、こんな僕自身も、ちょっとは浮かばれるのかも、まだ、生きる。

8月某日、時刻は23時15分。

いろいろすごい。たくさんすごい。今日の夜という時間を過ごすために、これまでの僕の夏はあったのかもしれない。絶頂はいつも、終わる頃にやってくる。だからこそ、こんな絶頂を迎えた夜は、夏の終わりに違いない。この夏に聴いた曲の全てを、今から聴こう。こんな夜に。絶頂の夜に。夏の終わりの夜に。

8月某日、追記。

東京で好きなところ。アパートの近くで好きなところ。前にも書いたけど、扇橋ってところ。アパートからは徒歩で15分くらい。そこから眺める東京の夜景、隅田川と荒川のせせらぎ、西へ西へと走り続ける首都高のトラック、東京の広い広い空、そして今日は、低くて近い半分に割れた月。そういや、この前みんなでドライブをした時には、低くて近い満月になりきれない満月だったような。それからしばらく経ち、月はくっきりとした満月を迎え、満ち、欠け、今日は既に半分の姿になっている。いずれは三日月になり、やがて消える。くっきりと半分に割れた月を、この河川敷から一人で眺める今宵が、夏の絶頂なのだろう。なんて。首都高を走る大型トラックや高速バスは、一体どこを目指しているのだろう。どんな人が乗っているのだろう。どんなものを運んでいるのだろう。道路というレールに乗って、車たちは次々とやってきては通り過ぎる。そんなものを見ていると、自分は、首都高を走る運転手とは一生分かり合えないのだと思う。一生、会うことはないのだと思う。考えてみれば、自分の意思とは全く関係ないところで、産み落とされ、名が付けられ、どれだけ生きたいと願っても最後は死んでゆく。無常とはこのことか、なんて思ってみたりもする。蚊に刺されても、痒みはいずれ治るのなら、僕は諦める。自分の意志とは関係のないところで、あらゆることが決まり、僕らはレールに乗って生きてゆく。誰かが敷いたレール、なんてものではなく、この世界のレール、誰もが歩みゆくレールに則って、人生は進んでゆく。何も分からない。終わりが来ることだけが、分かっている。途中は、途上は、分からない。全てが後付けで、事実なんてのはただの後付けに過ぎず、解釈なんてのも、後悔すらも、もはや後付けの他にはなく、こんな夜があった、ということですら、後付けでしかないわけで、どうなるかが予測できないからこそ、どうにかなったという現実だけが、そこにはある。その片方の事実に、片割れの事実に、夢へと化した想像の世界にこそ、後悔が宿り、寂しさが佇み、そんな世界を抱えて人は生きてゆく。あぁ、しかしながら、この夜があってよかった、この夏があってよかった、と、後付けで、自分にとって都合のよい解釈ばかりをしていたい。どうしようもない現実だったとしても、頭の中だけは、せめて想像の世界だけは、欠けることなく、満ちることのみを、望んでいたい。

8月某日、21時22分。

欲しいもの、プリントされた白T。何がいいかな、自分の好きなものがプリントされたTシャツを着てみたい。ベースは白。それに、Wranglerを合わせたい。それだけで引き締まる気がする。スタイルの悪い自分にとって、若干のフレアが効いてるパンツは強い味方。あぁ、欲しい。宮沢賢治の銀河鉄道の夜のイラストがプリントされた白Tを見つけた。なんと値段は3万を超える。朝焼けか夕焼けか分からない6千円の白Tも欲しい。最高にイケてるし、なんかこう、今の気分にばっちし。あとは、青山ブックセンターの白Tもあった。欲しい。さすがに3万円は出せないから、朝焼けか夕焼けか分からんTと、青山ブックセンターTの2つを買おうかな。まじ金ないけど、欲しい、とてもとても欲しい。

8月某日、時刻は10時58分。

起きた。センスのいい人になりたい、センスのある人になりたい。誰もが羨むセンスを持ち合わせ、おっ、この人はセンスがいいな、と思われたい。センス、センス、センス、ではいったい、センスとはなんだ。言葉だけが一人歩きしているような気がしないでもない。考える。センスがいいな、と思う人の特徴は、好きなジャンルが明確にある人。ジャンルというか、明確というか、自分が好きなものを自分で知っている人。「なんかいいな」と思ったものを「なんか」では終わらせずに、少しばかり考えて、「自分が好きなものに対して抱く審美感というやつを、知ろうとしてきた人たち」かもしれない。かくいう自分は、「なんかいいな」をそのまま「なんかいいな」で終わらせてしまうから、センスがない。結局のところ、「自分の審美感を知っている人、知ろうとしてきた人=センスのある人」かも。そして、"センスがいい人"と"センスのある人"をごっちゃにしてはいけない。"センスがいい"と"センスがある"は、違うのだ。"センスがいい"とは、その人の審美感に対してジャッチし、判断を下す人が、この映画や音楽は良いだの悪いだの、判定していった結果として辿り着く「センスのいいorわるい」なのだ。そして「いいorわるい」には、ばらつきが出る。烙印を押す人によって、好き嫌いの差がでるからだ。一方で"センスのある人"というのは、審美感を知っている人。審美感=センス。自分で自分の好きなものを知っているからこそ、自分の審美感を知っているからこそ、「センスのある人」になる。(ちなみにセンスのない人という言い方はしない)たしかにそうだ、自分の周りにいる「この人はセンスがあるなぁ」と思う人たちは皆、自分の好きなものに対する造詣が深く、好きなものの一部を僕に教えてくれたり語ってくれたりしてくれて、(話してくれる、ではないのだ。話す、ではなく、語る、が物語るその人のセンス)そして1番は、好きなものを語っている時の表情こそ、最も素敵で、その表情にこそセンスが宿るのかもしれない。つまるところ、少しばかりちゃぶ台を返すようだけれど、ここまで自分が書いてきての結論、「好きなものを好き!」と正々堂々叫べる人が最強。センスがいいとかわるいとかあるとかに関わらず、好きなものを純粋に「好き!」と、この世界に向けて口にできる人が、つまりは最強で、そんな人たちはたいてい恋愛がうまくいく。

8月某日、ぴえん。

昨日書いた文章が保存できていなかった。悲しい。そのまま書くのも面倒なので短めの再現を試みる。1つ、高校野球は、甲子園は、素晴らしい。でも、高校野球だけではなく、それ以外のスポーツも、文化系の部活動も、それだけではなく、何かに打ち込んでいる高校生たちは、みな青春に輝いていて、素晴らしい。どうしてもTVでは甲子園が取り上げられがちだけれど、自分は、それ以外にも最高な高校生が青春の日々を送っていることを胸に刻んでおきたい。2つ、自分の中にある興奮を、誰にも、どこにも公開せず、興奮の風呂敷を自分の心の中だけでおおっぴろげ、興奮を興奮たらしめる背徳感が、なんとも言えない別の興奮を生む。だから、たまには誰にも共有せず、自分ひとりで興奮を抱えるのもよい。以上。こんな感じのことを綴ってみました。

8月某日、時刻は13時32分。

ずっとずっと平凡だと思っている。自分のことを、「凡」だと思っている。何もできないわけではないが、何をしても中途半端で、抜きん出るものがない。精一杯の努力ができるわけでもなく、かといって努力をしないわけでもなく、中途半端な、時には55点、時には75点の平均65点の努力をして、テストでも100点を取れるわけでもなく、0点を取れるわけでもなく、ただただ平均を手にしては、両端で揺らぐ人を、人生の主人公みたいだな、などと嘆いてみたりもする。決して声には出さない。不満があるわけではないが、満足しているわけでもない。こんな中途半端な人生が中途半端に続いていくのなら、どうせなら、中途半端のさらに中途半端で、「平凡」と呼ばれる人たちの、「凡」の象徴となるやさしい文章を書いてみたい。完成度はこれまた65点。

8月某日、時刻は23時00分。

振り返ればいい思い出だけが輝いていて、戻りたく、帰りたくなるものだ、だから早いとこ諦めなよ、大丈夫、だってカウボーイは笑っているのだから。なんて、ちょっとセンチメンタルな日曜の夜。明日は5時起き。がんばるさ。辛いけど、面倒だけど、僕の好きな人たちもちゃんと生きてるんだもんね。それぞれにそれぞれを抱えながら、時に頑張って、時に諦めて、拾って、紡いで、落として、失くして、それでもまだ、生きているんだもんね。だから僕も、はぁ、あなた達がいてくれるせいで、日々を、ちょっとは前向きに生きてみようと思う。だからそう、こんな夜には、静かに歌を、聴かせておくれ。

8月某日、時刻は22時51分。

あぁ、痛い。顔が痛い。皮膚科で処方してもらったニキビの薬が、、、ヒリヒリと痛む。顔面に熱を帯びながら、画面に向かって今日も書く。夢ができた。高校野球の監督になること。仙台育英が全国制覇を成し遂げたので、監督のインタビューがとても素敵だったので、言葉の魔術師かよって感じで感銘を受けたので、高校野球の監督になります。はい、ミーハーです。高校野球の監督だから、高校教師にならないといけないな。高校教師ってことは、何かしらの科目を教えないければ。体育?いや、違うな。理系科目はさっぱり。となると、歴史?いや、マニアック。残された選択肢は2つ。1つ、現代文。1つ、英語。よし、これでいこう。人生舐めてる。舐めてるというか、自分はなんでもできると思い込んでる。そうして、夢、語る。たぶん、バカ。夢に夢を見る青くて痛い奴。でも、夢だから。なりたいって思ったんだから、しょうがない。プランはできた。
・社会人4年目終了、退職。
・1年間の放浪。
・1年間の受験勉強。
・4年間の大学生活。
・高校教師&高校野球の監督。
ほらできた。あとは実現されるのみ。唯一の不安は、大学の学費をどこから出するか。それだけが悩ましい。まぁ、将来の自分がなんとかするっしょ。そしてやっぱり教科は英語だな。放浪を経て、国際的な自分になり(国際的な自分ってなんだ?)、培った語学力とボディランゲージで、生の英語を教えたい。最高に面白いじゃん。やべ、最高。なんだか高校野球の監督じゃなくて、高校英語の先生になりたくなってきた。そうそう、ここで書きたかったこと。自分の好きなものに対しては、恥ずかしがらずに自分ごとにしていい、ってこと。だって今日の甲子園決勝、仕事をサボってリアルタイムで見てたけど、もうね、泣いた。まず、東北に真紅の大優勝旗、次に実況の言葉(107年の歴史の中で初めて東北に優勝旗が渡ります、とか、みちのく宮城、とか、杜の都仙台、とか)、最後は監督のインタビュー(全ての高校生に拍手を)。自分も高校野球をやっていたけれど、割と真面目にやっていたけれど、自分より上手な人なんて私立にはゴロゴロいたし(公立にはいなかったわけではないが、公立の中では上手な方だったと自惚れている)、最後の大会は2回戦で負けちゃったし、自分より甲子園に行きたかった人なんて山ほどいたし、そんな人たちを押し退けて甲子園の舞台に立った人だって沢山いるわけで、自分は、日本の高校野球のヒエラルキーの中では、底辺を支えるその他大勢でしかない。そして、東北出身ではあるけれど、宮城に、仙台にいた期間なんてのはたった4年間で、仙台のことを好きではいるけれど、そこまで仙台のことについて知っているかと言われれば疑問がつく。なのに、そんな奴が、仙台育英が全国制覇を成し遂げた、という事実に、感極まって、鳥肌が立ち、涙を流した。高校野球のヒエラルキー、仙台のヒエラルキーで見ると、最下層に位置する人間なのだけれども、東北の高校が甲子園で優勝したことに想いを馳せ、生まれてもいない甲子園の第一回大会を想像し、そうしてまた、仙台育英が頂点を極めたことに感激する。そう、好きなものに対しては、思いきり自分ごとにしていた自分がいた。恥ずかしいくらいに、自分ごとだった。どうしようもないくらいに熱狂し、興奮し、震えた。自分のことように嬉しかったというか、あの感動はまさしく、自分のことだった。だから、自分の好きなものに対しては、圧倒的に、自分ごとなんだと思った。

8月某日、時刻は18時57分。

海にいる。砂浜で横になり、自分と暮れていく空の間にスマートフォンを挟ませ、文章を書いている。書く内容は、特に決まっていない。空ってこんなにも広かったっけ。東京の空とも違えば、駅の近くで見上げた空とも違う。海辺の空は、砂浜で寝転がって目にする空は、四方に広がり、近くて、まるで広大な空が自分の身に降りかかってくるような気にさせ、宇宙を想像する。暑さが遠ざかる。つまらない。最近は、つまらなくて、つまらない。ここには書き出せないこともある。色々と吐き出してはいるけれど、自分の心の中を書き溜めてはいるけれど(主に、好きな子に対する感情、訪れる寂しさ、音楽のこと、文章のこと、仕事のこと、過去のこと、将来のこと、など)、やっぱり、この文章はいずれ公開させるわけだから、書けないこともある。人にはなかなか見せられない嫌なところ、人間臭いところ、ずるいところ、強欲なところ、勝手なところ、あぁ、最近は毎日を、今日はもういいや、と思って生きている。自分勝手でいいや、と、諦めている。左を見る。少しの夜景が見える。右を向く。これまた夜景と打ち上げ花火が見える。真上を見上げる。あれは二番星か三番星か、光の強さ的には四番星であろう。フィルムカメラで、その四番星に向けてシャッターを切る。どんな夜景より、打ち上げ花火より、こんな夜には、誰からも指をさされないであろう四番星が、もっとも愛おしく映った。そんな人になりたいと思う。または、僕のような四番星の人に寄り添える人間になりたい。そうであれば、その他のことはどうでもよい。好きな子に優しくしたい。

8月某日、時刻は19時31分。

どういう感情なのだろう。どんな気持ちなのだろう。自分の心の中は、いったい、どうなっているのだろう。寂しさか、いや違う。淋しさか、いや違う。切なさでもない。愛しさでも、恋しさでも、黄昏でも、落ち着きでもなく、満たされもせず、しかしながらこの物足りなさに、心が満ちている。寂しさでもあり、淋しさでもあり、切なさでも、愛しさでも、恋しさでも、黄昏でも、落ち着きでもある。それら全てを合わせても満たされることはないが、満たされることのない諦念に、心がそっと居場所を見つけるのである。やるせなさに、報われているのである。こんな夜が何の意味をもつというのだろう。何ひとつない。あるのは空虚。けれども、この空虚こそが今の自分の心を宥めるのではないだろうか。海風が秋の訪れを運んできたような気がした。

8月某日、どこかの追記。

新年の始まりは1月、新学期の始まりは4月。では、季節の終わりはいつか、夏である。夏に、季節の一周期が終わるのである。だからである、秋の気配と共に、寂しさが頬を撫でるのは。寂しさという厄介者は、ひと夏の記憶だけを含んでいるのではない。秋に始まり冬それから春と紡いできた日々の全てが夏に凝縮され、夏の終わりと共に過ぎ去ってゆく。夏の終わりに靡く風は、季節をさらう。そして、消える。雲で覆われた空も、夏風に靡かれ、星が瞬いている。雲は遠くへ、この夜空に一面の星が輝いた時、夏は終わり、新しい季節が始まる。聴いていた音楽は、「Sunrise&Sunset」まさに、である。

8月某日、時刻は21時19分。

夏の異変。日常の亀裂。終わりの予兆。思い返せばそんなものたちは、たしかにうっすらと影を忍ばせ、自分の身に差し迫っていたはずなのに、気づかず、気にもとめず、漠然と、呆然と、今日と同じ明日を、昨日と同じ今日を、過ごせるものだと思っていた。なんてことを、森山直太朗の「夏の終わり」が流れてきて、思い出した。今日はこれだけ。これ以上でも、これ以下でもない。ただ、これだけ。

8月某日、時刻は24時12分。

あ、13分だ。最近、彼氏が彼女の肩に腕を回して歩いてる姿を見かける。カッコよさげな男性が、華奢でカワイイ彼女の肩に腕を回して歩いている。だせえ。男、ださいぞ。その光景を見かけた僕は心の中で呟く。自分は大学2年の時にこれをやって、当時の彼女から、「いや、重いから!そっちが思ってるより、体重、かかってるから!!」とガチめに叱られ、「あぁ、はい、すんまそん」となったことがある。全ての彼女がそう思っているわけではないだろうけど、一部の人は、そう感じているらしい。だから僕は、これから彼女ができたとて、カワイイ彼女の肩に腕を回して歩くなどいう愚行は、かっこいいを履き違えた、独りよがりの、彼女に対する迷惑行為は、二度としない。いい歳のカッコよさげな男がそんなことやってる。はは、僕は大学2年でその事実に気づいていたんだ、などと、心の中でマウントを発揮する。現実には、隣を歩く彼女すら久しくいない自分なのである。彼女の肩に自分の腕を回して歩くような愚行すらもできない、愚男である。

8月某日、時刻は10時14分。

また帰ってきちゃった。帰る場所といえば、まず実家、そして仙台。今日は実家に帰ってきちゃった。12日ぶり。やっぱり月2の頻度で帰省しないとダメみたい。これが私の好きなもの、大切にしたいこと、自分らしくある瞬間。雑多な感情、いや感情ではない、頭の中で考えている雑多なあれこれ。センスについて。中途半端にやっていては、センスとは呼べない。振り切らないと。どっちかに振り切ってこそ「尖」が生まれ、失敗し、成功し、繰り返され、あなたらしさ、あなたのセンスが育っていく。自分が好きだと思ったものを、カッコいいと思ったものを、その諸々を、近くへ。好きなものをとことん、だから自分も、こんなに帰ってきちゃうんだろうね。これが、私の、センス。センスとは、好きなものに対する姿勢。もっといえば、人生への対峙に必要な眼差し。なんとなく、そんなことを考えていた。

8月某日、時刻は14時56分。

追いかけてくる秋の気配から逃げつづけてきたけど、遂には捕まり、その瞬間に流した涙には朝露で湿った土の匂いが含まれているような気がした。

8月某日、時刻は16時00分。

実家ってすごいな。変わらない。自分も遂には実家を出て東京で働いているけれど、家族だって、姉が結婚したり、父と母はあと数年も経てば定年になるだろうし、祖父母は老いていくのがこの目ではっきり分かる。でも、変わらない。いや、変わった。それでも、実家の匂いというか雰囲気というか、そんなものたちは変わってなくて、小学校から帰って網戸を開けて「ただいま!!」と叫んだ瞬間の光景だったり、誰もいない二階に登って「しん」とした気配とともに吸い込む静けさだったり、あぁ、そんな些細なことはいつまでも変わらないんだ。些細なことこそ、変わらないもんなんだな。まだまだ自分は、あの頃の世界に居続けたいんだよな。

8月某日、時刻は20時22分。

なんだろう、一昨日も書いてなかった、昨日も書いてなかった。書かなかった、と言うべきか。書くことに、気が向かなかった。ここには書かない、けど、とても嬉しいこと、ありがとうって思えることがあって、それに酔いしれていたのかもしれない。そう、何回も何回も記憶を辿っては、繰り返しては、嬉しくて、あぁ、幸せだなぁ、楽しみだなぁ、なんていう気持ちになっていたっけな。ちょっと書いちゃってんじゃん。いや、でも、これは8月の記録じゃん、これを抜きにして8月は語れないじゃん、だから少しだけ書いちゃった。話を変える。もう夏って終わったのかな。ぜんぜん夏っぽくないよ。夏の終わりも感じないよ。ねぇ、夏ってこんなんだったっけ。夏の終わりは、心がきゅーっと小さくなるんじゃなかったっけ。あ、もう尽きたのか、果てたのか。夏が始まる前から終わりを意識して、ピークが過ぎた頃にはほとんど終わっていて、だからか、夏の終わりなんてとうに過ぎていた。あとは秋を、そして冬を、待つのみ。ありがとうね、夏、やっぱり大好きだったよ。明日は海へ行くね。黄昏に暮れる、夏の終わりの海へ。

8月某日、時刻は21時33分。

絶望する。自分が書いた文章に、おもしろくねぇなぁと絶望する。嫌になる。昨日はコピーライター養成講座みたいなのの説明会?に参加した。コピーライターって、てかコピーって、誰かに何かを届けるためにあるものなんだと知った。そりゃそうか。じゃあ、自分の文章は。自分の文章なんて、ただ、自分が書きたいと思ったものを書いている、未来の自分に残したいと思ったものを書いている、忘れたくない、を、書いているだけなんだろうな。それでいいんだと思うし、仕事でもないし、でもいずれは、言葉にダイレクトに関わる仕事をしてみたいなぁと思っていたんだけど、やっぱり、己の感情をそのまま書き出したい自分って、どこまでいっても独りよがりで、何者でもない人間のエッセイとか、なんなんだよ、とか思って、落胆する。絶望じゃない、落胆だ。ちょっと落ち込んじゃってる。でも、誰かに読んで欲しいとも思う。それは例えば、好きな子であったり、頭の中に浮かんだ人とか、いろいろ。それでいいのかな。でもちょっと今はめんどくさい。あーあ、って感じで、夏が終わっていきます。想像してた夏の終わりとちょっと違う。もっともっと寂しくなって、これまでの夏、大好きだったよ、ありがとう、大泣き!みたいな終わり方だと思ってた。ドラマチックな、夏の最期をね。でも、いたって冷静で、落ち着いていて、もう夏なんてとっくの昔に終わっていたんだ、とさえ思う。少しばかり、大人になったせいだ。

8月のあとがき。

夏の最後の儀式が終わった。「儀式」だなんて大袈裟だけど、やっぱり海へ行って、達郎を聴きながら、沈んでいく陽に夏の終わりを重ね合わせる。あぁ、もっと海に来ればよかったな、あぁ、もっと達郎を聴いてればよかったな、なんて、夏の終わりにやってくる後悔。もっともっとしたいことあったのにな、できなかったな、少し寂しそうに、でもどこか満足気に呟いてみたりもする。どんな夏だったのだろう。最近は曇り空が続いていたり、気温もめっきり下がっていたり、そのほか諸々のせいで、夏なんて遠い昔のように感じる。夏って、実在するのかな、虚構でしかないんじゃないかな、あるのは終わりだけ、夏の終わりだけを、最後の夏の太陽が海へ沈んでいく時にだけ、感じるんじゃないのかな。でもこうして、これまでの日記を振り返ってみると、あぁ、やっぱり夏って実在してたんだ、ちゃんとあったんだ、とも思う。今はそんなに寂しくはなくて、波の音だけが心に沁み入ってくる。星、綺麗だな。もっと暗くなれば、もっと綺麗になるんだろうな。夏の太陽がどこかへ行ってくれないと、星も月も現れない。なんて、夏が終わったことを正当化しようという魂胆。いや、でも、いいじゃない。もうそんなことはどうでもいいじゃない。夏の太陽が沈んだ、そして星と月が夜空を照らす、その事実だけでいいじゃない。見えるものを見て、感じたことを感じて、そのままの姿をそのまま受け取ってみる。もうそれだけでいいじゃない。

さよなら夏の日、いつまでも忘れないよ。
雨に濡れながら、僕らは大人になってゆくよ。

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