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夏の金木犀

昼食を終え、彷徨いこんだ住宅街から仕事場へと戻る時、自宅の庭でティーバッティングをしている少年を見かけた。いや、正確には、見てはいない。なのだが、聞こえてきた。金属バットにボールが当たる音。甲高い破裂音。みなさんも一度は聞いたことのある音。5メートル歩けば「カキーン」、さらに5メートル歩けば「カキーン」と、僕の5メートルと彼のスイングが連動する。その音は狭い住宅街に吸い込まれていく。緑のネットをボールが揺らす。それでもやはり、当の野球少年の姿は影に隠れたまま。

そんな時にふと、「あぁ、ずいぶん遠くまで来てしまったなぁ」と思った。いつの間にか、随分と遠くまで、来てしまったなぁと。あれだけ夢中になっていた野球もいつしかやめて、小中高大と続いた学校生活もおわり、あらゆるものから守られてきた実家すらも飛び出して、こうして、ひとりで、生きている。野球選手の夢を諦めたのはいつ頃だったろうか。いや、それは「諦めた」という明確な線引きがあるわけではなく、自然消滅的に、僕の手から、するりとこぼれ落ちた過去の一刹那に過ぎないのだろうか。

ふと、「今年の夏はどこか変だ」と思う。「いいや、まだ夏なんてものは来てはいない」とも思う。6月後半にぐぐぐっと暑くなり、今年の夏は早めにやってきたなぁとハンカチで汗を拭いていたのに、7月に入った途端、曇天。梅雨明け後に、梅雨入りしたような。季節感がおかしくなる。それでも最近はだんだんと暑さを取り戻し、いや、それでもまだ私が想像する夏の暑さには到底届いてはいない。あと4日で7月も終わる。僕は7月に何ができたのだろう。8月、夏の終わり。大人になるにつれ、夏の始まりを感じなくなってゆく。代わりに、夏の終わりだけが妙に切なくなってゆく。あれほどまでに恋焦がれた夏が、「今年こそは!」なんて意気込んでいた夏が、「まだだ、まだ夏は始まっちゃいない!」などと心の中では盛大に叫び続けながらも、ひそかに夏は始まり、気づかぬ合間に絶頂を迎え、終わろうとしている頃に夏の存在に気づく。ようやく、ね。「あぁ、そういえば、夏、だったんだな、」と感嘆に暮れる。そうして、寂しさと切なさが、身体を支配する。

大人になるということもまた、なんだかそれらと似ているような気がする。「まだ子供だ!今はまだ若い!」などと言っておきながらも日々は過ぎ去っていき、毎日が淡々と続いていき、気づいた頃には立派に働いていた。あれだけ遠かった未来を、今は生きている。そうして、現在地から過去を振り返り、「いつの間にか随分遠くまで来てしまったな」などときのこ帝国の一節でも口ずさんでみたりもする。「まだ始まっちゃいない」なんて時には既に何かは始まっていて、絶頂に気づかぬまま、終わりだけをひしひしと感じる。まるで青春だ。夏も、人生も、あぁ、なんだか青春と似ている。

夏の暑さ、は、変わらないものの、夏の熱さ、が、年々衰弱してしまっているようで、それが悲しい。

なんてことを呟いてみたら、ある人から、「それじゃあ、またティーバッティングをしてみようよ」なんてリプライが飛んできた。確かにそうだ。また始めてみればいい。夏が終わったのなら、また始めてみればいいさ。野球選手になるという夢が自然消滅的に消えてしまったのなら、また何かの夢を始めてみればいいさ。「今年こそは!」なんて願いが叶わなくとも、「来年こそは!」と声に出してみればいいさ。なんてね。まだまだ僕らはあの頃の夕暮れを、追いかけて、追いかけて、それでも取り戻せはしないものたちをまた、始めてみればいいのさ。

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