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第6回 工場、生みの苦しみ

順調に行くと思われた自社工房への成長が・・・


こうして、順調に拡大を続けていったサンプルルーム兼自社工房。
しかしながら、そんな自社工房に大きな事件が起こりました。
それは、ここまで現地ディレクターとして
マザーハウスの生産拡大をけん引してきたアティフの退職でした。
家族の事情でどうしても辞めざるを得なくなってしまったのです。
マザーハウスの理念を理解し、自社サンプルルームと現地委託工場の関係を
精力的に作ってきたアティフの退職は、
ようやく私たちらしいモノづくりが見えてきたマザーハウスにとって大きな痛手になりました。

更に大きなダメージだったのは、
軌道に乗ってきたサンプルルームを出ていかなくてはいけなくなってしまったことです。
元々、サンプルルームは他のデザインセンターを間借りしていたもので、
アティフの力を持って借りていたものでした。
そのため、アティフの退職に伴って、その場所のオーナーが
私たちに出ていくように命じたのです。

現地にいた山口は強いショックを受けました。
ようやく軌道に乗り始めたモノづくりが、また振り出しに戻ってしまう。
そして、10人近いスタッフが生産やサンプルづくりができなくなり、
路頭に迷ってしまうかもしれない。
今までのバングラデシュでの苦しい経験がフラッシュバッグしました。

しかし、マザーハウスはそういう時にこそ、救世主が現れます。
それはその後、マザーハウスの今につながる生産体制をつくることになる、
2人のマネジメント。モインとマムンでした。

自社工房だけでなく委託工場での生産も拡大していく中で、
アティフが辞める前から新たなマネジメント候補を探していました。
そして、たくさんの候補の人たちと面接していく中で、
人一倍理念への共感が強かった二人が、モインとマムンでした。

しかし私たちがサンプルルームを失ったときは、まだ二人は入社前。
モインはウォルマートのバングラデシュで人事を、
マムンは現地で急拡大を続ける他のバッグ工場の工場長をやっていました。

「私たちは自社の生産拠点を失ってしまいました。
この会社がどうなるかは正直わからないけれど、力を貸してもらえませんか?」

現地でこの状況を何とかしたいと走り回っていた山口と山崎は、二人に懇願しました。
まだちっぽけなマザーハウス。
そして、会社存続の危機。
それに対して二人は将来が約束された場所にいる。
普通に考えれば、無茶なお願いでした。
しかしそのお願いに対して、二人は強い気持ちで返してくれたのです。

「今から一緒に工場を探してみよう、僕はこの会社に来るって決めたんだ。」とモイン。
「僕のつてで、何とかできるかもしれない。行く場所を絶対に見つけるよ。」とマムン。

山口も山崎も、そして工場にいたスタッフ皆も、
この強い言葉がどれだけの勇気になったか、図り知れません。
そして次の日から、マザーハウスの新しい生産拠点探しが始まったのです。

路頭に迷い、苦しみの日々。


こうして始まったマザーハウスの新しい工場探し。
今まで働いてくれていたスタッフたちも全員ついてきてくれたとはいえ、
生産する場所がない中でやることもありません。
こういう状態が長く続けば、スタッフが辞めてしまうのも時間の問題です。
新しい工場探しは時間との戦いでした。

山崎はモインのバイクの後ろに乗りながら、“For RENT”と貼られている、
工場に使えそうな場所をひとつひとつ回っていきました。
山口はマムンと共に、マムンの知り合いの工場のオーナーに話に行き、
何とか間借りできないか、交渉を続けました。
文字通り、バングラデシュの首都ダッカを走り回ったのです。

そして、マムンの知り合いの靴工場が、
一つのテーブルをマザーハウスの生産のために、貸してくれるということになりました。
決して綺麗ではなく、お世辞にも言い環境とは言えない工場でしたが、
既に私たちが拠点を失ってから1週間。
その工場でお願いする以外、選択肢はありませんでした。

「ここでいいモノづくりはできないよ。」

しかし、ここで生産を続けるつれ、スタッフの不満の声が高まっていきました。
もちろん、同じことを山口も強く感じていました。
いいモノづくりはいい環境から。
マザーハウスが日々大事にしてきた姿勢からは程遠いような生産環境でのモノづくり。
マザーハウスにとって、この環境がサスティナブルでないことは明確でした。
ここで生産を始めて2週間。
限界が近くなっていました。そこで朗報が入ったのです。

読んでいただいてありがとうございました!マザーハウスをもっといろいろな角度から楽しんでいただける毎日の出来事を、生産地やお店からお届けしていきます!