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神様からの大きな愛を実感したとき。

受洗後も家庭の事情で礼拝には参加できないので、
私はこれまで通り月に1度ずつの牧師先生による教会の集いと
信徒さん宅での集いで聖書の学びとお交わりをさせていただいていました。

受洗後の教会での集いでは、「洗礼を受けた私」というふうに意識し過ぎたことが原因で牧師先生や信徒さんたちと以前のように言いたいことが話せなくなっていました。特に牧師先生とは・・・。
誰も何も思っていないのに、私が勝手にただの参加者ではない、集いの席でも何かしなければみたいな感覚になっていき、自然に振舞えなくなっていて苦しくなっていきました。

過去の自分を振り返り、神様に大きな愛をどれほどもらってるのか、
この恵まれた環境を当たり前だと思っていた自分が
それどころか不満でさえ思っていた自分に
本当に罪人だなと実感した時でした。
そしてある日の教会での集いで何か感じたのか、牧師先生が
マルタとマリアのたとえを使い神様の愛について教えてくれました。
いかにわたしが神に愛されているか、
ということを実感して一人号泣したことがあり、涙が溢れでました。

さらに、たまに帰省するたびに父と話をすると、
「今のお前は聖書を学びみことばを蓄えていく時期だ」と言ったのです。
定期的に実家にお泊りしながら、これまで以上に父と話をするようになっていました。今までの人生の中で一番父と話をしているかもしれません。
「今のお前はまず息子を育てること、家族のことが一番だ。そして、必ず動けるときがくる。そのときまでに蓄えておけ」と言ったのです。
私は妙に腑におちました。
園児の息子をおいて、病気の夫をおいて私があちこち出歩くことはできない。今は聖書を学び、信仰を養う時期なんだと。
そういう時間を神様はくれたのだと思いました。
信仰も神からの一方的な恵みです。
自分の努力で勝ち取るものではないのです。
今なら確信をもっていえます。
私は神様に育てられている真っ最中です。
今も
そして、これからも。

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