知らせないやさしさ、知らされない寂しさ

「おばあちゃんが亡くなったから、今から電車で行くよ。
部活と学校、しばらくお休みするように連絡しておくから。」

朝早く、お母さんから淡々と告げられた。

人の死に直面するのははじめての経験だった。
中学1年生の冬、大好きなおばあちゃんが天国に旅経った。

祖母の家につくまで、考えていた。
死人を見るのが、怖い。
人は死んじゃったらどんなふうになるのか。会うのが怖い。
顔を覆っているあの白い布を取るのが怖い。
おばあちゃんは今、どこにいるんだろう。

久しぶりのおばあちゃんの家は、いつもの匂いがした。
洞窟の中にいるようなひんやりと湿った空気とお線香の香り。
おもいきって障子を開けたら、畳の上の真っ白な布団の中でおばあちゃんが眠っていた。

あれ怖くない。
全然怖くない!!

「あ、きたね」って心底うれしそうに、まだかまだかと待っていたのに、
何でもないという顔で、でもうれしさを隠し切れないようないつもの
祖母がそこにいるような気がした。

「やっとわたしの家に帰れたよ。」
って安堵しているのがわかった。

"あーやっぱり。ここに居るのがわたしのおばあちゃんなんだ。”

今までの違和感や反発心が、一気に溶けていくようだった。


亡くなる数年前、父からおばあちゃんが手術をすること、病名は胃潰瘍とかそんな感じのことを聞かされたのを覚えている。

その後、退院して家に帰り、またいつものように1人で暮らしていた。ただ、昔とは違って一人息子の父が週末に1人でおばあちゃんの家に行って何やらお世話を焼いて帰ってくるというのが多くなった。

おばあちゃんは便利な道具が嫌いで、掃除はほうき掃きだったし、洗濯機は二層式、電話は黒電話。トイレはぼっとん便所でエアコンもなく、冬はこたつと石油ストーブ、夏は扇風機とうちわだった。

そんな祖母の家に、電子レンジとエアコンが導入され、子機付きの電話に変わった。
料理が何より得意だった祖母が台所に立たなくなり、できあいのものを電子レンジで温めて食べていると聞いた。小学生だった私はただ、がっかりしていた。私の知っているおばあちゃんは、外食や総菜を嫌い、なんでも手作りした。うどんだっておまんじゅうだって、ぬか漬けや梅干しも毎年漬けたし、風邪の時は首にネギを巻いたり、大根のはちみつ漬けを作ってくれた。でも今はもう違う。変わってしまったのだ。そんな祖母の現実を見るのが怖くて、自然と足が遠のいた。
ほとほと、怖がりなのだ。

ある日、祖母が作ったおはぎを父が持ち帰ってきた。
もうほとんど料理などしていない祖母が、いつものように私の大好物を作ってくれた。うれしかった。
でもそれが、祖母の変化を知るきっかけとなってしまった。

「え、蟻が入ってる」最初に気づいたのは私だった。
「うっそ~そんなこと」と母が笑って返す。

「いや、絶対にこれは蟻だ」


あんこの色と同化して一見わからないけど、どのおはぎにもぎっしりと蟻が入り込んでいた。

中学生の姉も、小学生の私も妹も、それ以上何も言ってはいけない気がして、苦笑いでその場が終わった。何事もなかったかのように、でもみんなが共通の何かを察したかのように。

祖母の家の台所はお庭に面していて、木造で隙間だらけの家にはよく虫さんたちが入ってきていた。癖なのか、お客さんたちを待たせたくないという想いからか、おはぎの日は朝早くに作っておいて、アルミホイルをかぶせて台所に置いておくというのが祖母のスタイルだった。それを今回は床に数時間置いたままにしてしまって、蟻さんが入り込んでしまったらしい。それだけ注意力が低下していたのか、作るのに疲れ果て、後のことを考える余裕がなかったのかもしれない。

何日かして、電話で話したおばあちゃんは声だけで落胆しているのが分かった。いつもなら弱音を吐かないおばあちゃんが
「ごめんね、なんだかおばあちゃん目が悪くなっちゃってね。びっくりさせたね」と謝った。自分でも得意なことが、うまくできなくなって困惑しているようだった。

ほどなくして、祖母は入院することになった。
専業主婦の母が朝から夕方まで、往復5時間以上かけて祖母の入院する病院に行って付き添い、金曜日の夜から週末にかけて父が泊まり込みでお世話をした。
入院してから、祖母はわがままを言うようになり、買ってきてほしいと頼んでおきながら、おいしくないと言ったり、来なくていい、一人でできると言ったり、体の拭き方が下手だと言ったりしてとにかくお嫁さんの立場である母を困らせ、母はノイローゼ気味になった。
毎晩のように、父に泣きながら大変さを訴えていたのを覚えている。

病気が人を変え、家族を混乱させるものなんだと子供ながらに感じていた。

そんな生活が1年以上続いたある日、母に聞いてみた。

「おばあちゃんって何の病気なの?」
「肝臓ガンなんだよ」
手術したけど、取り切れなくて、もう歳だから体力的に無理があって
手術はしないということだった。

そして、そのことを祖母以外の大人たちはみんな知っているのに、祖母は知らされていなかった。

「ほんとはガンなんでしょう」と何度も聞かれたけど、「そんなことありませんよ」と母はそのたびに答えたという。

父が「あういう性格の人は、真実を告げたら、ショックが大きすぎて一気に弱ってしまう。」
と言って、周囲もそれに同調していた。

父なりの本人を想ったやさしい嘘だった。


でも、でもね、大人になって思う。

自分の体の変化は、自分が一番よくわかる。
祖母は薄々、自分がガンであることに気づいていた。
でも、周りはみんな違うと言う。

病気と闘っている間、きっと祖母は独りぼっちだったのだと思う。

みんなが嘘をついている。信頼できるはずの息子も、孫も、親戚も。
お医者さんでさえ、病気について詳しいことを説明しない。

不安に押しつぶされそうだけど、誰にも本音をぶつけられない。

中学に上がった私は、週末は部活が忙しくて、ほとんどおばあちゃんに会いに行くことができなくなった。けど、本当は変わってしまった祖母に会いたくなかったのかもしれない。
私が知っている祖母とは違う人のような気がしていたから。



「帰ってこれてよかったね。安心したね。
私ここに来るまで、おばあちゃんと会うのが怖かったんだよ。でもさ、今は全然怖くない。
今までたくさんおいしいご飯を作ってくれてありがとう。もっといっぱい話したかったよ。高校生になって、ひとりで電車でおばあちゃんに会いに来たかったよ。」
黄色く、むくんでざらざらになったおばあちゃんの手を取りながら、心の中でたくさんお話しした。

今思ってる。子供であろうと、親の人生の最期に最善の選択ができるとは限らない。
むしろ人生の岐路に立った時のように、分かれ道があったらどちらが正解だったかなんて誰もわからない。同時に2つの選択はできないのだから。

父は「知らせない」ことを選んだ。
それはたしかに、祖母へのやさしさの選択だった。

でも祖母が寂しかったのもまた事実だと思う。
最期に味方が欲しかったと思う。一緒に病気に立ち向かって、不安な心の内を聞いてくれる味方が。


だいぶ前に母が言っていた。
お嫁に行ってしまった3人の娘たちに、頼るつもりはない。
迷惑はかけたくないからいずれは父と2人、老人ホームかマンションに入りたいと思ってると。
母もまた、やさしい選択をしている。

人は結局1人では生きられず、誰かのため、誰かという存在に頼って生きている。
だから完全に、自分だけのため、その人だけのための最期を選択することなんてできないのだと思う。

でももし、人の最期を私が選ぶなら、寂しくないほうを選びたい。
本人がつらくても、生きたいのなら告知して、気持ちを受け止める役を買って出たい。本人が病名のことで神経を擦り減らすことがない状態、つまり痴呆が進んで認知能力がないとか意識不明の状態なら穏やかに過ごせる選択ができたらいいと思う。

あ、明日母に電話して父と老人ホームに入った後の続きをきいてみよう。
いつか選択をするときのために。

#みんなの人生会議 #ぶんしょう舎


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