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いつになったら満足できるのか

先日のことである。
親戚の家に、引っ越し後の挨拶もかねて訪問し晩御飯をごちそうになった。
近況報告をするうちに、なぜ今になって必死に勉強をしているのかという話になった。
私の主張はこうだ。
「何もかも自分には足りていないように感じている。時間も、知識も、資産も、世間体も。焦りもある。とにかく満ち足りない。」

親戚のおばは言う。あえて言うが30代だ。
「いくつになっても学ぼうという意思があることは素晴らしいことだ。しかしながら、わたしは満足を必要としていない。いまここに私があることに感謝している。子供にもそう伝えている。いつ死んでもいいように準備は整えてきたつもりだ。」

なぜそこまでの境地に辿り着いたのだろうか。
これが人の親になるという事だろうか。
その答えは結局見つからなかったが、とにかく衝撃を受けた。

不満足

私を動かす原動力は常に、不満足(と劣等感)からきていると信じてきた。
お金もない、地位もない、特筆すべき技術もない。
常に満ち足りない気持ちはあった。そしてそれを改善していく作業は間違いなく楽しかった。
さながらゲームキャラクターの実績を積み上げるかのように、出来なかったことが出来ていく達成感は、何にも代え難い快感だった。
そしてそれは万人が共感できるものだと思っていた。

のだが、満足を必要としない。というのには驚いた。
前進を人生の前提としない、現状維持や停滞とも少し違う。
ありのままを受け止めるといったニュアンスを感じた。

どちらが正しいのか、というのは論点ではない。
おそらくどちらも正しい。
しかし、自分自身の考えが揺らいだのは間違いない。
満足とはなにか、というのを考えてみようというきっかけになったのだ。

満足の先に何があるのか、さらなる不満足が待ち受けているだけか。
それは終わりのないゲームなのではないのか。
マインクラフトがそうだ。あれには明確な目的がない。
自分で目標を見つけ出さない限り、ただの砂遊びに終わる。
お金持ちがいくらお金を稼いでも、稼いだだけ必要なお金が膨張してしまうというのもよく聞く話だ。

一つ課題が解決したと思ったら、また別の問題が浮かび上がる。
そうやってずっと生きてきた。
満たされないからこそ、それを埋めるために頑張ることが出来た。
これからもそうなのだろうか。
永遠にわたしは、満足できないのだろうか。

解決策はひとつ思いつく。
「諦める」ことだ
自らの天井を設定することで、背伸びすることなく心穏やかに過ごせるだろう。
「大人になる」とも言い換えることが出来るかもしれない。
ここ1年でいい意味でも悪い意味でも「大人」に囲まれた環境にいたことで、平和と現状維持を最優先する考えもあることを学んだ。

反抗心からかもしれないが、むしろ自分は「まだ諦めたくない」という思いがさらに強まった。
いつか「大人」になったとき、自分も同じように現状維持を愛するようになてしまうのだろうか。

マズローの法則(欲求5段階説)

もうひとつ、引っ掛かっていたものがある。
日本全国で見かける、巨大なアルミ缶の袋を下げて走り回る自転車だ。
金が欲しいなら、ほかにやりようがあるだろうといつも思っていた。
なぜ状況を変えようと思わないのだろうか。
それがずっと疑問だった。

とあるセミナーにて、「マズローの法則」という話を聞いた。

マズローの法則とは、人間の欲求は5段階のピラミッドのように構成されているとする心理学理論です。アメリカの心理学者、アブラハム・マズロー(1908~1970)が考案したもので、「マズローの欲求五段階説」「自己実現理論」などと呼ばれることもあります。
マズローの法則によれば、人間の欲求には「①生理的欲求」「②安全の欲求」「③社会的欲求(所属と愛の欲求)」「④承認欲求」「⑤自己実現の欲求」の5段階があります(個々の詳細は後述)。そして、これら5つの欲求にはピラミッド状の序列があり、低次の欲求が満たされるごとに、もう1つ上の欲求をもつようになるのです

https://studyhacker.net/maslow-hierarchy

ひとつの回答を得た気分だった。
衣食住が満たされていない場合、次の段階を考える余裕はそもそもない。
情報の格差とか、そういう話ではなく、次の欲求が持てる状態ではないのかもしれないと感じた。

引っ越し

よくよく思い返せば自分にも思い当たる節があった。
引っ越しだ。
引っ越しはすべてに優先する。
最近までそんな状態にあった。
読書も勉強も後回し、ゲームすら上の空だった。
常に頭の片隅には「引っ越し」の文字があり、それは家具の配置が揃い、まともに日常生活が送れるようになるまで続いた。
それどころか、住環境のためなら多少の出費は構わない、コンビニ飯も許す、ウォーキングしている暇なんぞない、そんな心理状態だ。
この1年の積み重ねは、儚くも崩れ去った。

まさに、マズローの法則「②安全の欲求」が脅かされていたように思う。
たかが引っ越しと侮っていたが、住環境が不安定なことがここまで精神と生活に影響を及ぼすとは思ってもみなかった。

昨年の5月時点では、間違いなく「⑤自己実現の欲求」が強く働いていた。
しかし、引っ越しというイベントによって私の欲求は、「②安全の欲求」の段階にまで序列は堕とされた。

まさか第1使徒の僕が13番目の使徒に堕とされるとは…


どうやら欲求は、環境によってそのステージが上下することが分かった。
引っ越しが落ち着き、今私がようやくnoteを書く気になったのも、ある程度住環境に満足したからであろう。
巨大なアルミ缶の袋を下げて走り回る自転車たちも、生活地盤が整った時、初めて「さて、なにしようかな」と重い腰を上げるのではなかろうか。


お受験


人生の節目を迎える場面で、「それしか今できない」という状況は何度もあった。
受験、卒論、修論、就活などなど、「いまは遊んでいる場合じゃないんだ」と遊びを断ったり、飯も喉を通らなかったり、といった危機は容易に思いつく。

引っ越しというイベントが「②安全の欲求」にあたるならば、これら節目節目でやってくる試験のようなものは、「③社会的欲求(所属と愛の欲求)」に該当すると考えた。
浪人するかもしれない、無職になるかもしれない、後がないといった恐怖感情は、何を投げうってでも試験に取り組むパワーに変換できる。

これらに共通している点は、期間と負担が大きく、終了後の解放感と達成感がそれ以上に大きいことだ。
だからといってまたやりたいとは思わない。せっかく手に入れた居場所をそうやすやすと手放したくはないものだ。

・・・と思っていたはずが、いつからかその環境に不満を抱き始める。
所属が確定したことで、欲求が「④承認欲求」「⑤自己実現の欲求」のステージに進んだのだろう。
内部を変えようとする人もいれば、そこから去ってまた新たな環境に旅立つ人もいる。

結局

僕たちは永遠に満たされないのだろうか?
私を動かす原動力は常に、不満足からきていると信じてきた。
それを改善していく作業は間違いなく楽しく、出来なかったことが出来ていく達成感は何にも代え難い快感だった。

しかし、欲求のステージが折に触れて上昇、下降するならば、一生これを繰り返すことになる。
いつまでたっても満足は期限付きだ。

「諦める」
これはネガティブな言葉ではないかもしれない。分相応を知り、平和を愛する賢い言葉かもしれない。

だからといって他人にもそうであることを求めるのは違うと思うし、わたしはまだ前進してみたい。
まだやっていないことがある。
「⑤自己実現の欲求」がどんなものか掴めていない。それを実感した時、どんな風に自分が思うのか興味がある。
「諦める」を選択するのか、「まだ足りない」と感じるのか。
それとも、「ありのまま」でありたいと願うのか。
自分だけの人生でなくなった時に、そこにはどんな感情があるのか。

もうすこしあがいてみようと思う。


ところでこういうフワッとしたことを書いていると、いつも思い浮かぶのが「シャーマンキング」の言葉たちです。
少年漫画でありながら、今読み返すとなかなか重いセリフが多い。



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