今年作ったMADの話

はじめに


2022年も終わりを迎えます。
なんというか、長いようであっという間だな、と毎年思います。
年明けると、冬休みも終わり、また仕事に追われる毎日が来ると思うと、年が明けず、ずっと年末付近を永遠とループするエンドレス大晦日が発生してほしいな、と願うばかりです。

さて、

この記事は今年作った2つのMAD
・【静止画MAD】ルックバック×ソラニン
・【静止画MAD】彼方の君へ【さよなら絵梨】
の解説、ではなく、こういう思いで作りましたよ~、という言わなくてもいいことを書く記事になります。年の終わりに今年を振り返りたくなったのです。

【静止画MAD】ルックバック×ソラニン

このMADは個人的には色々実験したMADです。
テキストを少なくして、なるだけ視聴者に情緒を感じてもらうようにしたり
ストーリーをなぞるだけでなく、独自の解釈を込めたり、1つのシーンをあえて使いまわしたり……
感じづらい部分だと思いますが、個人的にはいろんな角度から攻めているのです。
その中で作中では「漫画」を題材にしてますが、それを自分の中で「MAD」に置き換えて、「なぜ、描いたんだろ。描いてもなんも意味もないのに」と感情を込めて完成したのがこのMADです。

制作期間6ヵ月


このMADは半年の期間をかけて作っているのですが、これはあえて時間をかけるようにして作りました。ルックバックは年月を遡る物語なので、時間をかけて作ることで、故意的には出せない、時間の変化、みたいなものが画面からでるのかな、と考えたからです。……なんかすごい意識高い系っぽいですねこれ。


京本は創作意欲の全て

ルックバック藤野京本の交流を描くことで、創作の意味を問う作品だと私は解釈しています。そして、京本は創作者としてのライバルであり、ファンであり、パートナーであり、そして、最後には言語化が難しい創作意欲の源として物語は帰結します。
京本は物語が進むにつれ、存在の意味が変化していくのです。

全体的な構成として、最初に漫画家になった藤野を出すことで、大人の時期を基準にしました。その大人の時期が軸になるのですから、小学生時代は過去となります。
イントロ開けから、1番目(0:58~2:15)は過去を振り返っている意味合があります。

最初、京本は脅威として描かれてます。
このMADでは、あまり表現しきれていない部分ですね。

1:10あたりのシーン

全体のほとんどが京本に票を入れている状態。
ちなみに、この藤野に入る1票は京本がいれた1票です。
周りがライバルを褒めている中、そのライバルである京本だけが藤野を賞賛してるのって熱くないですか?

サビ前

サビ前(1:36~1:56)の部分は個人的に面白いことができたかな、と思っています。
京本のために4コマ漫画を描く、という1つの出来事に対し、同一人物が相反する感情で受け止めているシーンです。

4コマ漫画を描く藤野

あの時こうしていれば
あの日に戻れれば 
あの頃の僕にはもうもどれないよ

歌詞も相まって、良い感じになりました。
この部分では現在と過去手数の多さで表現しています。

現在は影や光を足して、手数を多くして

ショックを受け4コマ漫画を破る大人の藤野

過去はそのまま使用

雨の中喜ぶ子供の藤野

現在とは、とてもリアルで現実的なものです。
個人の感覚ですが、子供の頃より、今現在見える世界は、くすんで見えます。逆に、大人になった現在から見る子供時代は、輝いて見えます。

現在・過去
明るい・暗い
白い・黒い
重い・軽い
くすんでいる・鮮やか

といった感じに、現在と過去を捉え方を映像で表現するために、
現在は手を加えて情報量を増やし重く、そして外枠は黒く
過去は手を加えず情報量をなくし、外枠は白く、
しました。
……なんかうまく言語化できていない気がしますが、次へ行きます。

さよなら

京本の遺影

このMADは死と向き合ったMADでもあります。

この動画では原作者である藤本タツキが死の描き方に対して言及しています。これを見た私はこの人は、死、というもの向き合ってるんだろうなぁ、と感じました。おそらく、死は突然に来るものだと捉えているのだと思います。だから、このMADでも死ぬこととはどういうことか、描いてみようかな、と思いました。

結果、死とは絶対的に取り返せないもの、みたいな表現になりました。

死んだ人間とはもう交流できません。
でもそれでも、死んだ人間と交流したいのであれば、自分の中に生きる死んだ人間に語り掛けるしか手段はありません。
生きていた過去を、思い出すしか手段はないのです。

どこかで元気でやれよ

死んだ人間は過去にしか生きていきません。
でも、現在の自分は否応なしに未来へと向かっていきます。
だから、名残惜しいですが、過去と決別して未来へと進むのです。

未来へと進む藤野

……なんかポエミーになりましたが、死(過去)との決別がこのMADのテーマですね。


【静止画MAD】彼方の君へ【さよなら絵梨】

ルックバックが過去の話なら、さよなら絵梨は未来の話だと解釈してます。

古池や蛙飛びこむ水の音

これは、松尾芭蕉の有名な俳句ですね。初出は1968年らしいです(wiki調べ
ざっと300年以上前の作品です。短い句なのに、山奥にある静かな森林に囲まれた池の情景が浮かんできます。300年以上前の作品なのに、現代の自分たちに伝わるってすごい事じゃないですか? 松尾芭蕉がこうやって句を書いたってことは、その情景に感動して残したい、と感じたからでしょう。
そんな彼の目を通して感じたものを、句を通して自分たちも疑似的に感じ取ることができる。創作物には、その可能性があるのです。

今回のMADはそんな感じのことがテーマのMADです
(……何言ってんだコイツってならないで~~(泣))

今回のMADのテーマを要約すると、創作物は未来と交信できる、ですね。
さよなら絵梨にこのようなテーマがあるかは怪しいですが、仕様楽曲の
迷える羊には同じようなテーマがあると思います。多分。

誤魔化さずそのまま使う

特徴的なコマ割

さよなら絵梨のほとんどがこのようなコマ割りをしています。
既存のさよらな絵梨のMADではこれをどう誤魔化して、動画へと落とし込もうか、模索するようなMADが多い印象を受けました。
ですが、自分は小細工はせず、そのまま使うことにしました。
そのまま使った方が原作の空気感が出ると考えたからです。

1000年後

今回のMADは時系列をぐちゃぐちゃにして、展開の先を読めないようにしたつもりです。
その最たる部分がサビの1000年後だと思います。
世界が滅びた千年後に絵梨が映画を見ている描写を入れることで未来を描きました。この滅んだ世界のモデルは「映画ZOO」の「陽だまりの詩」だったりします。というか信号機の部分はそのまま拝借してます。
この部分は本編にない自己解釈の部分です。
普段は本編にあるシーンしか使用しないので、自己解釈を入れることは、自分なりの挑戦だったりします。

……やべぇ、書くことがねぇ。

最後に

なんか思ったより書くことがなかったですね。
今年はイベントに参加しませんでした。
ルックバックの場合は1か月程度我慢すればMCLやAnipafeなどに参加できましたが、技量は置いといてMAD歴13年の自分が半年かけて作ったもので参加するのは、なんとなく平等ではないような、反則行為のような気がしてやめました。
さよなら絵梨の場合は、完成したのにもかかわらず、投稿できないことが辛くて、我慢できませんでした。
しかし、イベントに参加すべきだったなあ、と後悔しております。
昨今、MADの出来栄えを再生数などの数字で判断することが難しくなってきたように感じます。昔は再生数に対してマイリストの数、いわゆるマイリス率で判断できましたが、再生数じたい伸びない今はそれもできない。
ならば、どこで判断するのか。一番良い指標はやはり、順位の出るイベントな気がします。イベントに出ると感想を貰える比率が増えますし、順位が出るので、己のレベルを把握できます。
なんのイベントにも参加せず、ただ単純に投稿するだけでは、自分のMADの手ごたえを感じづらく、放り投げたブーメランが返ってこないような、そんな空虚な気持ちになってしまいます。
だから、来年はイベントにどしどし参加するぞ!、ってな話ではないですが、2つ静止画MADつくったのに、手ごたえがないなぁ、というただの嘆きです。はい。感想欲しい(本音)チヤホヤされたい(本音)

おそらく私生活的にMADを作れるのは来年が最後だと思います。
だから、いっぱい作るぞ!ってわけでもないですが、なんかいい組み合わせが見つかる、かつ、意欲が出たら、ちょぼちょぼ作ると思います。
その時にはまた自分のMADを見てくださるとありがたいです。

最後に、よいお年を。

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