映画版「線は、僕を描く」の感想

映画内こんな台詞が出てくる
「本質を見なさい」
水墨画に置いて、描くべきものは形ではなく、
被写体の本質を見抜き、それを筆に乗せて描くことが大事、的な言葉だ。
それを聞いて自分は
「それはお前だよ!」と劇場で叫びたくなった。
平たく言えば、映画版は個人的にそんな出来だった。

原作を読み、漫画版を読み、静止画MADを作る上でそれなりに読み込んで、『線は、僕を描く』について人並み以上に理解してる自負がある自分だけど、映画版は『線は、僕を描く』は本質を描けてなかったと思う。
側だけを借りた別の何かであった。

というか、改変がどうのこうのではなく、単純に面白くなかった。

この記事はそんな不満を垂れ流すものです。
ネタバレへの配慮とかまったく気にせず書いていきます。
なので、原作未読、映画未鑑賞の方はお気をつけてください。

「線は、僕を描く」とは、どういう話なのか?

まず、原作の話。「線は、僕を描く」の内容について説明していきます。
簡単に言えば、突如両親を失い、孤独であった主人公、青山霜介くんが水墨画を通して快復していく話です。
自分の静止画MADを見てもらえれば、なんとなくの雰囲気はわかるのかな、と思います。

「線は、僕を描く」のテーマは人との係わりだと認識しています。
人と係るためには、コミュニケーションが大事です。つまりは伝えることです。だけども自分の気持ちを純粋に伝えることはとても難しいです。
大丈夫か?と問われたなら、大丈夫です。なんてつい言っちゃうのが人です。大なり小なり取り繕ってしまいます。
だけども、「」は違います。
作品内に置いて「」は、特別な意味を持ちます。
十人十色。「」にはその人の気持ちや人柄が現れるのです。
水墨画家はそれを見抜き、まるで占いのように、その人の本質を見抜くのです。(現実に置いて、水墨画家がそれをできるかは知りませんが)
タイトルの「線は、僕を描く」とはそういう意味合いも含まれているのです。
「線」には人柄が現れ、水墨画家たちはそれを見抜く。
青山くんの描く線を通して、出会う水墨画家たちは、彼を理解していく。
理解し合う関係となり、青山くんの孤独は解消されていくのです。
素敵な話ですね。

映画版「線は、僕を描く」の「いや、おかしいだろ!」ポイント

さて、ここから本題です。
映画「線は、僕を描く」に対し、「おかしいだろ!」と思った箇所を列挙していきます。不満点の羅列です。
ちなみに、脚本が極端に破綻していることはありません。
ただ、原作の面白いと思った部分が、ことごとく消えているのです。
原作と違うから良くない、という記事ではありません。
面白い部分が消えて、なおかつ、つまらなくなっているから
問題だと言っているのです。

1.千瑛の作品が「薔薇」から「椿」に変更されている

映画は横浜流星さん演じる青山霜介くんの泣き顔から始まります。
何かを見て、感動しているようです。次の2カット目で彼が何を観ていたのかが明かされます。「椿」の絵です。

椿?……え、薔薇じゃない。
初見時は「お、変えてきたな」程度の認識でしたが見終えた今では、「え、なんでそこを変えたの?」と混乱してます。

解説します。
篠田千瑛(しのだ ちあき)とは主人公のライバルです。
美しい美貌をもった青山くんと同世代の水墨画家です。
原作で彼女が描いたのは薔薇の絵でした。
青山くんは彼女の作品を観て感動こそしましたが、泣きはしませんでした。
彼は「薔薇を描かれてるけど、精巧な花が情熱的に描かれてるだけ」と素人ながら形しか描けない、という彼女の欠点を見抜きます。

では、ここに置いて3つの問題点があります。
1.青山くんの見抜く力がわからないor消えている。
2.千瑛の成長の余白が消えている。

1.青山くんの見抜く力がわからないor消えている。
 
原作に置いて、青山くんは千瑛本人と出会う前に作品を観ます。
 そして、作品だけで人柄や人相すらも当ててしまいます。
 そこで、2つのことが表現されてます。
 ①青山くんの観る力が優れていること。
 ②絵を観たら、人柄がわかること。
 映画に置いてその人柄を当てるくだりはまるまるありません。
 
故に、2つの情報が消えたままストーリーが進むのです。
  ①がわからない問題点
   青山くんは水墨画をはじめ、とてつもない急成長をします。
   それこそ「都合よすぎね?」と思っちゃうくらい上達します。
   その理由の1つとして本質を見抜く目の良さがあります。
   つまり、この人柄を当てるくだりがなくなったことで、
   その急成長への説得力、理由付けが皆無となるのです。
  ②がわからない問題点
   冒頭での情報というのは物語に置いて、大事だと思います。
   なぜならその物語に置いて、前提となるからです。
   先に書いたように、「線は、僕を描く」の前提として
   線には人柄が現れるという情報は必要不可欠です。
   そして、その説明シーンがなくなれば、その前提が崩れるのです。

2.千瑛の成長への余白が消えている。
 
成長とは、面白くなるスパイスとしてとても優秀です。
 物語とは、葛藤を乗り越えるものです。序盤と終盤で、
 人の変化が垣間見えると、観ているこっちもなにかしら達成感の
 ようなものを得れます。成長はいいものです。
 ですが、この映画はその成長を消しているのです。
 
語弊のある言い方をしました。
 たしかに、映画内によって千瑛は成長します。でも、説明不足すぎて、
 なにが成長したのか、まるでわからないのです。
 最後に大きな賞を取り、師匠に「よくやった」と褒められるのですが
 見ているこっちとしては何を改善したのだろう???
 と言った感じなのです。
 原作に置いて、千瑛の欠点は描きすぎることでした。
 つまり、余白で描くことを彼女はできていなかったのです。
 そういった具体的な欠点を説明されずに、成長しました風を装われても、
 見ている側のこっちは説得力を感じず、感動できないのです。

2カット目の時点で、これです。
ちなみに青山くんが「椿」に感動していた理由は後に明かされます。
千瑛が椿を描いたのは、謎です。

2.箸を持つ手が綺麗だね

 原作の序盤にこんなシーンがあります。
 水墨画の展覧会、その設営バイトに来ていた青山くんは、控室にて
 水墨画界の巨匠、篠田湖山先生に出会います。
 彼と一緒に弁当を食べることになり、湖山先生は、
 青山くんの端を持つ手を見て、
 「綺麗な箸の持ち方だね。ご両親がしっかりしておられたのだろう」
 と褒めます。青山くんは自分の右手を見て、
 そこに亡くなった両親の存在を感じます。自分の何気ない所作にでさえ、
 人の生きた形が残っている。
 人との係わりも表現されているいいシーンです。
 それが、ない!
 いや、あるには、あるんです。持ち方が綺麗だね、と褒めるシーンは
 ただ、褒めるシーンなだけで、それ以上の意味が消えているのです。
 たしか、映画内の台詞で「ご両親~~」が消えていたはず。
 それに、映画に置いて死んだ両親がまるでヒューチャーされてないから!なぜかオリジナルででてきた妹の「椿」がなぜか押されているから!
 誰だよ!「椿」って!!!
 つーか、なんで千瑛は「椿」を描いたんだよ!!!!!!!!

3.青山くんの喪失が明かされるタイミング

青山くんは両親を失っている情報は、原作では物語の最序盤で明かされます。漫画版では序盤の終わりほどで明かされます。
映画版では、物語の終盤にしてようやく明かされます。
出すタイミングに置いて、どんな問題が発生したのか。
構成上、物語が飲み込みにくくなっている。ように感じた。

原作では
孤独の解消を経て、自分の水墨画への追求
という順序で話が進んでいきます。
孤独の解消、の部分は明確に描かれています。
千瑛「あなたは独りじゃない」というシーンは、読んでて目頭が
熱くなりました。まあ、映画ではないんですけど。

映画版ではその両者が平行して進んでいきますそれ故、フワッとしてます。
なにもかもが、フワッとしていて、まるで面白くないのです。

5.翠山先生の女体化

原作ではなく、漫画版で好きなシーンがあります。
湖山先生に並ぶ翠山先生の家に青山くんが訪れることがあります。
翠山先生は妻を失くしています。いわば、青山くんと同じ悲しみを背負った人です。そんな先生が、青山くんの絵を観て、自分も絵を描きます。
「君は独りじゃない」ということを絵で伝えたのです。
原作でも、そのシーンはあるのですが漫画版の加筆により、さらに面白くなっています。まあ、映画版では、翠山先生が女体化されて、そのシーン辞退がないんですけどね。
というよりも、あのキャラクターが必要だったのか意味がわからない。
ただの嫌なおばさんじゃんか……。

6.椿って、誰だよ!!!!

極めつけは「椿」だ。
まったくもって、なんで加筆したのか意味不明な「椿」だ。
冒頭、青山くんは千瑛の描いた「椿」を見て涙していた。
それは、青山くんの妹「椿」を思い返して泣いていたのだ。
彼の家族は大洪水により、流されて死んでしまったらしい。
家が、丸ごと流されてしまったのだ。
「…………」
なにそのオリジナル要素!!!
いる!?いるのかぁ!!、その要素は!!!!

解説します。
「線は、僕を描く」に置いて、個人的に大きなシーンが二つあります。
1.千瑛に「貴方は独りじゃない」と言われ、孤独が解消されるシーン
2.かつて家族と一緒に過ごした家に行き、過去に区切りをつけるシーン。

どちらも好きなシーンであり、目頭を熱くしたシーンであります。
それが、ない!!!きっぱりない!!!!
そもそも好きな台詞とか、そもそも一切消えてるんですけどね!!!!

……話を戻します。
家が流れてるってことは、2.のシーンも見れないのです。
その事実が発覚したとき、思わず腰を浮かしちゃいました。

そもそも原作に置いて、家、というのはかなり重要な要素です。
高校時代に彼は両親を失ってしまいます(本編は大学生の頃の話)
両親を失った彼は叔父叔母に預けられますが、家は残りました。
常時朦朧な状態、心を完全に閉ざした彼は、学校へ向かうべき足を、かつて両親と暮らしていた家に向けます。
朝から夕方まで、学校で過ごすべき時間を家に行き、ボーっと時間をつぶすのです。そして色々考え「どうしてこうなってしまったのだろう」と悩み続けます。これが、本編以前の話です。
そして、水墨画と出会い、自分の描くべき水墨がわからず悩んでいた頃、彼は過去との決着をつけるために、その家に向かうのです。
「いつか僕が少しずつ快復していって、胸の痛みも忘れて幸せになれた時も、独りぼっちだった時のことを、その時の気持ちを忘れたくない」
水墨画は命を描く芸術。
彼は彼が見つめてきた命=両親の死をそのまま作品に込める決意をするのです。
これだけの文章だと伝わりきらないのが大変歯がゆいのですが、味わい深いとてもいいシーンなんですよ。
それが、ない!!!!!
家が流されてるから、できない!!!
映画版では、流された家がもともとあったであろう所へ行きます。
瓦礫が散乱して、なにもありません。ただそこには庭に植えてあった「椿」の花が残っていました。千瑛は言います。
「あなたの帰りを待っていたみたい」
やかましいわ!!!なんで、花が流されてねぇんだよ!!家が流されて人が飲み込むほどの洪水だぞ!!残るわけねぇだろ!!!

そもそも青山くんが肉親の死を見つめ続けたシーンがないのです。
だから、最後に、命を描く的なシーンはありますが、
説得力以前に映画だけ見て、なんか必死に描いてんなぁ以上のことは伝わらないのです。

これとは別のシーンなのですが、
重役が集まるパーティにて、湖山先生が水墨画を披露することになる。
例の女体化した翠山先生もその場にいます。
しかし、時間になっても湖山先生が現れない。
スタッフたちは焦り、代役を探した結果その場にいた千瑛がいいのでは、となる。千瑛は緊張しながらもやることを決意。
だが、それを止めたのが女体化湖山先生
「やめときなさい。命を描けない貴方じゃ無理だわ」
けっこうけちょんけちょん言います。
そこで、口を開くのが青山くん。
「僕には命とか、水墨画とかわからないですけど、千瑛さんの作品で感動しました。千瑛さんにはできると思います」
……今の台詞をもう一度。
「僕には命とか……」
いやいやいや、青山くんが命をわからないとか言っちゃダメだろ!!
ずっと、両親の死を見つめ続けてきた彼が命をわからなかったら駄目だろ!!!!最終的にその見つめ続けてきた命を形にできるからいいんだろうがぁあああああああああああああああああああああ!!!!!!!!

最後に

ぶっちゃけ、まだまだ言い足りないことはいくらでもある。
描いた絵の意味とか、水墨画サークルは必要だったのかとか、千瑛が青山くんの大学に乗り込んだときとか、古前くんと青山くんとの関係とか、食べることとか、まあ、色々である。
これは、批判というよりは嘆きである。
原作と別作品であったというよりは、期待していた作品がまったくもって面白くなかった悲しみである。

自分はただ、好きな作品が映像化されて、感動したかっただけなのだ。

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