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人類と麺類

Mankind/人類の正体とは麺類では?聞こえようによっては、メンカインドとも聞こえる。麺カインド=麺類。人類(Mankind)=麺類。無理なように聞こえても、なんだか妙に納得がいくのは、麺をこよなく愛する日本人であるからか?

東南アジア、その中でも日本ほど麺類の恩恵を受けている国はないと思う。ぱっと、考えてすぐに、ラーメン、そーめん、そば、うどんなどが浮かび上がる。街を歩けば、かならず麺類を売りにした食い物屋が存在し、腹をすかした人々を優しく癒してくれる。

そんな仲がよさそうな麺類にも、ぎくしゃくした上下関係/カースト制度、差別がある。人類に人種問題が山積するように、麺類にも麺種問題がちゃんとある。20世紀の負の遺産であるアパルトヘイトは表面上は解決され、今ではどの人種もある程度仲良く共存しているが、麺類はいまだに、麺種隔離政策が平然とおこなわれている。多様性の受け入れがどんな声高に叫ばれようと、この問題の今世紀中の解決は不可能。一般大衆がどんなにそれを望んでも、麺関係のお仕事に携わる人々はごメンこうむるであろう。

うどん屋がとんこつラーメンをすました顔で提供することを想像できますか?

イタリアンなレストランがトマト煮込みうどんをメニューに掲載しますか?

蕎麦屋の店主は絶対に、たとえどんな大金を積まれようが、うどん屋の店主が涙ながらに頼もうと、うどんをその煮えたぎるお湯にぶちこむことを許さないだろうし、もしそんな野蛮な行為をすれば、噂はたちまち人づてに伝わり、その蕎麦屋は二度と朝日を拝めなくなるでしょう。

そのメン類の中で頂点にどんっと居座るのはやっぱり、うどんであると思う。その証拠にうどんは麺類に属するのに、麺という呼ばれ方を頭から否定している。あなたは誰かが、うどんのことをうーメンと呼んでいるのを聞いたことがありますか?しかも、麺のくせにドンの称号を得ている。まるでマフィアのドンような呼ばれ方。うドン!そこに、天ぷらを添えれば、もう天下を制したかのよう。

日本版のシチリアと異名を持つ四国。うどんマフィアの総本山がある香川県でものすごく図太い勢力を誇り、長い間そこに住む人々の血と骨になって暖かく守り続けている。ある情報筋によると、うどんの本場である香川県では、コンビニの数よりもうどん屋さんの方が多いと言います。が、調べてみてわかったのですが、うどん屋さんの店舗数は群馬県が香川県を抜いています。裏のドン。何でも、昔から小麦を多く生産しているようです。その小麦を精製して、人々を魅了する白い粉でシチリア香川を打ち破ろうとするそのさまは、ゲリラが潜むゴールデンとライアングルに瓜二つ。その名も、

ゴールデンとライアン群馬。

ヒエラルキーの二番目にくるのが、ラーメン。その生まれ故郷である中国ではあまりおいしいラーメン屋さんはないが、日本では全国どこでもおいしいラーメン屋が存在している。変幻自在な特性を生かして、みそ、しょうゆ、塩、とんこつ、チャーハン、餃子、チャーシューなど、色々な危ない連中とつるんで勢力圏を拡大しながら、常にうどんの地位を脅かそうとしている。インスタントヌードル部門ではラーメンのシェアがうどんを圧倒的に突き放していると思うが、うどんはそんなチープなことには興味が毛頭もない。カッパヌードルやらインスタントらーめんなどど、己を捨てるが如く名前を変え、外来語をなんのためらいもなく名字のように頭に持ってくるやり方は外道であり、プラスチックの容器にけばけばしく収まっている姿をみると、田舎から都会に出てきたおなご/おな男が、水商売に走り、泣きなしの金でブランド品に手を出したが、結局は都会人になりきれずに、どろ臭さを隠しきれぬまま、飲めない酒を一気飲みして、無理やり笑顔を作りながら仕事をこなし、雑踏をしり目にコンビニの前でヤンキー座りをしながら、浮かない顔つきでカップ麺をすすり、大都会に飲みこまれる、そんな悲しい光景が浮かんでくる。

うどんはドンッと腰を据えて、人々のアツい信頼を獲得している感がある。ラーメンはあらゆる方法で必死に勢力を拡大して、昭和と平成の中期にドンの称号を得たこともある。一時期はラドンと呼ばれ、日本中をパニックに陥れたが、自然界のドンであるガメラにやられ、おとなしくラーメンの器に収戻った。調子に乗りすぎると、痛い目をみる。

うどんの良き理解者で時には右肩とも呼ばれ、その身を細い棒のようにしながら、いつかかならずラーメンを追い抜くことを夢見ているのがソーメン。麺類社会では圧倒的に地位が低く、ほかの麺類は、その専門店が存在するが、ソーメンに関して言えば、それが全然ない。私は未だにソーメンのみを扱う店を見たことがない。夏場のアツい時期になると、多くの人から熱望されて、冷やしソーメンとして短い期間中ではあるが店頭にもでてくる。竹製の滑り台が大好きで、少々子どもぽいっところが弱点。目を離すとすぐに、ふきこぼれるし、大事に扱わないと、ぼろぼろに折れてしまう。

名前も、ソーメンなのか、そうめん/素麺なのかはっきりしない。

でも、うどんが家にない時に、お歳暮でもらったソーメンさえあれば、少々心細いが、しっかりその代わりを果たしてくれるし、ゆでたソーメンの上に、ツナ、しょうゆ、ごま油、マヨネーズをあえて食べればとてもおいしく召し上がれる。

麺類に属しながら、異様な存在感を持つのがソバ。うどんとソーメンとだいたい味が同じツユに浸して食べるのに、なんだか健康的で爽やかなイメージがある。小麦粉系の麺をゆでた水を飲む人はいないと思うが、そばをゆでたお湯はそば湯となり、ブランデーかウィスキーのようにありがたくちびちび呑まれる。それに蕎麦屋さんと聞くと、洗練された店内で静かに職人の手技にうなり、さらに打ち立てを食し舌をうならせ、食べ終わった後には体にいいそば湯を飲みながら、何年か前に行った、山奥でひっそりと営んでいる、裏に湧水が湧き、その水を使ったそばが自慢のどこか美しいところのそば屋を思い出し、ため息なんかつきながら、

よーし今日もがんばるぞー!という気持ちになる。

そばは美しい環境がよく似合う。うどん屋やラーメン屋はなんだか大衆向きで、人間と都会の入り混じった油臭いにおいが漂ってきそうだが、蕎麦屋は新鮮な空気がそこだけ流れ、澄ました顔で他をそばに寄せつけないオーラを発している。

麺類をずずずっーとすする時のノイズも、ほかの麵屋と比べると、蕎麦屋のほうが、お客さんが優しくすするので圧倒的に低いデジベルを発していると予想させられる。そばをすする時は、ずずずっーではなくてすすすっーと、清流のせせらぎを聞いているかの如く、マイナスイオンまで発散させているかもしれない。

うどん、らーめん、そばが休戦協定を締結している場所が、いわゆる食堂である。人々は、平和を求めそこにやってくる。家族連れが多いのは、そこにいけば大体の麺類が揃い、そこそこの値段で、まぁまぁのモノを食べさせてくれるからである。お父さんは、どうしてもラーメンが食べたかったが、妻がラーメンは太るから、私はソバにすると断言。娘と息子は、お子様ランチが食べたいとだだをこねる。

それじゃ、食堂に行こうと、無難な決断を下す。

食堂というメン権を無視した場所では、主役の座から降ろされて、かつ丼や天丼の横に無理やりセットとして埋め合わせられることあり、その場合の多くは、残飯と言う見るも無残な終焉を迎えることも。そこでは何の争いも起きないが、どこかパッとしない感があり、三者ともまったくやる気をなくして、

もーどうでもいいから、早く食べて出てってくれとヤケを起こしている。東京に状況して成功することを夢見た人たちが、ケツメイシの東京を聞きホームシックにかかりながら、それでもどうにかやってる感じ。

最近から問題になってきているのが、アメリカという超大国からやってきたX麺。ミュータントらしいので、何でできているかも不明。食べたら絶対体に異変がでるので、相当なことがない限りは食べない方がいい。さまざまな問題を抱えるアメリカだからこそ、こんなどうしようもないおそろしいメンがでてきたのかもしれない。

それを考えると、日本のメン類は無用な争いなどせずに、己の個性をしっかりと守りながら平和においしくやっていますね。ありがとうめん類!これからもよろしくお願いします。


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