杉田協士『ひかりの歌』 その1

また東京でやるのなら行ってみようかな、と『ひかりの歌』を見てみることにした。東京に来て3年目、初めて東京都写真美術館に立ち寄った。

見ようと思ったきっかけは、わかりやすいところで言えば、自分が短歌や映画批評をしてきたからとかそういうことだろうか。もしかしたら大きな映画館でやっている映画の広告への密かな反抗だったのかもしれない。

「ひかり」という言葉で想像されるのは、陽光や電灯、神や星、希望などいろいろある。「歌」は、この映画の元になったという4つの短歌であろうし、作中での歌唱でもあろう。『ひかりの歌』は「ひかり」を眼差し、それを「歌」いあげる人を4章に渡って描き出している。

それぞれの章の「ひかり」について、自分の考えを記したい。

1章ずつやっていこうと思う。

※ 以下、内容についても触れるので、読みたくない方はここまで

■ひかりを羨望する ー詩織

1章は詩織の話。1年間の契約で臨時の美術講師として高校に勤めている。言葉少ない女性だ。

1章はおそらく多くの人にとって、とても眩しい。高校の校舎や高校生と教師のくだらないやりとり、飲食店の夫婦とのあたたかい会話や食事、ライブハウスで歌う雪子。眩しい人々・環境に囲まれている詩織は、相槌を打つことや微笑んでいることがほとんどである。周囲の強烈な個性や「まっすぐ」さとは、違う意味を持ってそこにいる。

この章における「ひかり」は、夢や才能、それに向かう「まっすぐ」さではないだろうか。

少年は暗くなっても描き続ける。詩織は彼の手元を照らすために懐中電灯を持ってきたが、点かない。少年に手渡すと、しばらくいじって、乾電池の向きが逆だったことに難なく気づく。そして、少年の手で懐中電灯はつけられる。

    反対になった電池が光らない理由だなんて思えなかった

「反対になった電池」が原因だと気づかないこと以外で、「光らない理由」とは何か。

少年が点けると光らない、詩織が点けると光らない。詩織にとってはそういう理由に感じるのではなかろうか。

私は1章での「ひかり」は、詩織が羨望するものだと考える。彼女は自分の周囲の人の眩しさに不安を覚える。来年にはこの高校に勤めていないであろう自分のこの先のことや、絵を描くことへの思いが霞んでしまうような周囲の人の「ひかり」。

生徒にも「しーちゃん」と呼ばれるような詩織のまわりには、「ひかり」が集まる。それこそが詩織の性なのだろう。詩織の苦悩も喜びも人との関わりに恵まれてこそあるものだ。

仲良くしていた野球部の少年に「好きだ」と告げられた詩織は、自分の絵を描くように彼に言う。自分が想い人・雪子を描いていたように。少年に絵の才能や技術はないけれど、彼に絵を描かせることができる詩織がいる。

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