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旧統一教会に味方が現れなかった これだけの理由

加藤文宏


世俗と宗教

 宗教の価値観と、世俗の価値観は違う。
 たとえばキリスト教(など一神教)では、神に身を委ね、自分のやりたいことを捨てて、神の望むことを行うのが信仰とされる。だが自分のやりたいことを捨てるなんて、何のために生きているのかと世俗では考えられる。
 目の前に真顔で「神に身を委ねる」と言う人がいたら、日本人の多くが「おかしなやつだ」と思うだろう。だがキリスト教の信仰が根付いた国または集団では、さほどおかしな言いっぷりではないはずだ。
 旧統一教会に奇異の目が向けられるのは、前述の相違以外でも世俗の価値観と大いに異なる部分があったからなのはまちがいない。
 たとえば、祝福婚だ。見ず知らずの異性が教団によって引き合わされて、合同結婚式を経て夫婦になると1990年代初頭に報道されたため、世の中が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。(なお、祝福婚は教団内の紹介婚が実態であり、紹介されたからといって結婚が強制されるわけではなく、相性を考えて断る人がいると現在の信者たちが証言している)
 1990年代初頭は恋愛結婚率が80%を超えていた。この時代のヒット曲は自由恋愛を歌い、ドラマに登場する人々も恋愛を謳歌していた。恋人たちをテーマにしたJR東海のクリスマス・エクスプレスCMが放映されていたのも、まさにこの時代だった。純潔という価値観を大真面目に考える宗教は奇妙奇天烈なものだったのである。また旧統一教会が「親不孝な宗教」とされた背景に、親が息子や娘の結婚に介入できない不満があった。
 なぜ旧統一教会はカルトと呼ばれ、味方になる者が現れなかったのか。それは、祝福婚や献金への違和感や批判だけが理由だったのだろうか。批判が登場する背後にあるものを列挙して、旧統一教会の立場をあきらかにしてみたいと思う。
 世俗と宗教の隔たりは価値観の相違だけでなく、政治との関係、学問やメディアとの関係にもあった。そして宗教界における独自性とも関係があった。


オウム真理教が残した傷跡

──宗教学が罹患したアレルギー

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