最悪だった時とそこから

私が今までで、一番辛かった時はどんな時か。

思い出すのも苦しい、私の一人称がまだ僕だった時。
あの時、自分でも何が苦しかったのだろう。

当時住んでいたマンションの屋上から飛び降りたいと願っていた小学生。
そして結局飛び降りずに一人、押入れに篭って泣いた日。

彼は一体何が苦しかったのだろう。
祖父母の期待に応えられない恐怖だろうか。
親によって強要される、自分の望まないことをやり続けることだろうか。
クラスや友達との関係性で悩んだからだろうか。
漠然とした自分の夢が叶わない不安だろうか。

自分がとてもちっちゃくて、どうにもならないと諦めた日々があった。
あのとき、自殺はしなくてもだんだん僕という存在は死んで、気づけば一人称が私になった。

自殺したいと思っていた。飛び降りる脳内シミュレーションまでして、死ぬことに恐怖を感じなくなった。

今私が生きているのは、自分の想像力がほんの少し先まで届いたからだ。
自分が死んだら葬式がある、そこでは両親や祖父母が後ろ指をさされ、担任はどうして気づかなかったのかと自分を責め、友達は悲しみ、そして私が死んだことをどうとも思わない人たちがいる。

彼(僕?)はこのとき、悲しかった。
身近で自分に辛い思いをさせるけど、それでも自分もその人のために何かしたいと思う人たちを悲しませることが。
些細なことで彼を傷つけた人は、彼が死んだことに何も思わないということが。
だから立ち止まった。

彼は泣くだけ泣いて、それでも立ち上がる勇気はなくて私になっていった。逃げることができない彼は、新しく生きるために他人を取り入れるようにした。だから私の色は黒色だ。他人のいいところを猿真似する。赤も青も緑も黄も全部少しずつ混ぜていく。

自殺するって選択肢を私は否定できない。今の自分は絶対にしないけど。
諦めたら試合終了。絶望的な0-100のコールドゲームのホイッスルを鳴らす。もしかしたら、99-100かもしれない。でも本人にとって敗北となったその2点が、乗り越えられなかった壁として立ちふさがる。挽回のチャンスがあるように、諦めるチャンスもあるかもしれない。

死ななければ、案外面白いことだってある。辛いことや苦しいことが何倍もあるけれど。目的は誰が何決めったっていい。手段として生きるが選択肢にある。ここで終わるのが嫌だと、心のどこかで思うなら「生きたい」という目標ができる。そしたらあとは、探すだけだ。生きる上での楽しみ方を。


あれから随分と(当時から倍)生きてみて、少しわかったことがある。

あのとき死んでも別に良かった。
先の未来は自分の力で切り開いていくしかない。

抜け殻が木から落ちないように踏ん張るなら、セミよりも長く木にとどまれるかもしれない。しかし飛ぶ力を失ってできることは耐えるだけだ。私は周りに流されることで、飛ぶ能力を身につけ直した。

自分の過去はなくならない。誰だって辛い思いをして、乗り越えて、顔だけは笑顔でピエロを演じる。
上手な生き方って特になさそうだ。もしくは私に向いてない。伝記を読んでみるといい。有名人にもできなかったことが多いと気づく。

世界はちょっとしたことで輝くし、社会はいつだって私達に牙を剥く。
自分が草案にも関わっていない法律に従って、誰かの納得していない命令を受ける。あるいは生きたいのならば、命令されるのではなく自分で牙に立ち向かわないといけなくなる。社会はやっぱり綺麗ではない。
でも世界は綺麗に見えるようになる。「君の膵臓を食べたい」「化物語」「ブラックジャックによろしく」他にも知っただけで、ほんの少し世界が綺麗に見える作品があった。笑え、泣け、みんなに感情を見せなくたって、自分が自分をどんな奴かわからなくても。世界の美しさは、海外に旅しないと見つからないものでもない。

生きるものには祝福を、死んだものには安らぎを。

何かを書く練習ですので、サポートいただけると最高に喜びます。