![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77380453/rectangle_large_type_2_8d31e32e3c8a2e47ae0c8f769b4464ef.png?width=800)
日記:4月28日2(ツー)
こんにくわ(可愛い挨拶)
一日に何回日記を書いたっていい。
この間SNSのフォロワーと服のブランドの撮影(する側)の予定があって、当日の朝にドタキャンされた事件があった。
一か月準備したのに。
本人は熱があると言っていたがSNSの昨日の投稿を見てみると普通に夜の2時くらいまで遊んでいたようであった。
本当は遊んでいて忘れたのかというとそうではなくよくよく見てみるとその日大失恋をしてくるしさを紛らわすために街に繰り出していたようだった。それなら熱も本当にあったのかもしれない。ショックの熱とか恋の熱とかね…
でもドタキャンされた自分自身は実はそれほどショックを受けてなくて、あーまじか、という感じだった。5%くらいドタキャンされるような気もしていたが本当にドタキャンされるとは当然思ってないから心の準備が出来ていたわけではない。
楽しみにしていたのと一生懸命準備したので本来なら落ち込んでしまいそうなところだが、そうでもない。
こういう経験は、過去にもいくらかある。
祖父が死んだ時とかがそうだった。幼いころから家族とも距離を空けていて他の親族とも親しかった方ではないが、祖父は尊敬していたし親戚の中で一番好きだった。
がんの治療で晩年はかなり弱っていたが、それでも突然の出来事で母からの一本の電話が最初の訃報だった。
電話でそれを聞いた時、びっくりはしたがショックを受けたという感じではなく、後から悲しくなってくるのかなと思った。
結局、通夜でも葬式でも悲しい気持ちにはならず、これは自分は祖父の死という事実をまだ受け止められていないのだなと解釈していた。
ちなみに普段おとなしい兄は、訃報を受けた後大いに泣いたらしい。
それからもう何年も経つが、もうさすがに祖父の死を受け止められていないということはない。祖父は死んだし、祖母はそれをきっかけに家を売って介護施設に入居した。家を売る前に残った小物を形見としてもらう場を設けて貰ったが、幼いころ泣く泣く譲ったお気に入りの製図机も、大きな地球儀も無かった。
数年たったいま考えてみると悲しくなかったわけではないのではないかと思う。それはドタキャンされた今日だって一緒だ。高校生の頃付き合っていた彼女と別れた時もそうだ。
なぜなら、今、よくよく、よくよくよく念入りに自己観察してみると悲しいときに特有の心のゆらいでいる感じがするからだ。
きっと悲しくないわけではなくて悲しい気持ちに蓋をしているのだ。
だから自分を労わろうかなと そう思ったわけです。
書いていてめちゃくちゃ重い感じになってしまった。
マリオの64のRTAが好きで、ずっと定期的にTASやRTA動画を見ている。
RTAとは、簡単に言えばゲーム開始からクリアまでのタイムアタックのことで世界では広く流行している文化だ。年末にも配信で大規模なRTAの世界大会が行われていたくらいだ。
TASはもう完全にプログラムを組んでゲームの操作をして、それで出した超人的な記録を競うやつだ。
色々なゲームのRTAが日々行われタイムの競争がある中で、マリオ64のRTAはかなりメジャーなのである。だからマリオ64RTA界隈ではタイムを少しでも縮めるための色々な技が作られ、広まり、日々洗練されている。
この技の中で特に有名なのが通称「ケツワープ」で、階段や壁と床の隙間に向かって後ろ向きにジャンプする動作を高速で繰り返すと
めちゃくちゃワープするのである。(後で動画貼りたい…)
これはどうやら、後ろ向きにジャンプした時の慣性が消える前に更に後ろ向きジャンプで慣性を加える作業を何度も繰り返すことで、蓄積された慣性がケツ臨界点(今考えた造語)を超えた時一気に開放され、壁を貫通しワープを可能にするという仕組み、らしい。
見た目が面白いのとそこそこ知名度があるので、自分もこれのモノマネを一発芸のレパートリーに加えている。
でももっと伝わる相手が増えるようにこのRTA文化から広まって欲しいと思う。
日記と言いつつ今日あったことは何も書いてない。
おわり
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?