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卓球やろうぜ

サムネイル。パンクロックな俺。パンクロックをよく知らない俺。

定期的に自分の写真フォルダを見返す。こんなことあったな〜とかよりも「なんだこのアラームのスクショは」と感じる時の方が多い。意識がないうちに撮られた無駄な写真の方が目立つ。アラームとか、毎日ちゃんと起きれてねえじゃねえかという気持ちが際立ってちょっとしょぼんとしてしまう。一気にスクショだけ選択して消そうとすると、なんだかんだ26件とかあって悲しい気持ちになる。26回私は定刻起床の機会を逃している。
写真フォルダの中には、幼少期に撮られた写真をiPhoneで再度撮った写真が収められていて、それも定期的によく見返す。モチモチしている。その組み合わせ!? みたいなド派手な柄をものともしない私。

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この頃のことを全く覚えちゃいないが、写真にあったから「まあそうなんだろうな」みたいな表現しがたい気持ちに包まれる。何を考えていたんだろう、この頃は。
Twitterとかにも稀にアップロードするから、この写真の存在を知っている人は多分にいるのかもしれない。あまり変わらない自分の顔の造形に、私はこれを私だと認識する。『幼少期に撮られた写真』の中からまたさらに厳選されてiPhone内に収められたこれらの写真が、今のところ私が唯一記憶する『私の幼少期』である。たま〜に、『幼少期に撮られた写真』のアルバムを見返すと、え? こんな写真あるんだみたいな写真に出くわす。私が認識している『私の幼少期』は、先に述べた『幼少期に撮られた写真からさらに厳選されて撮られた写真』にしかないから、一瞬のうちにはその写真らが自らであると認識できないのだ。不思議なものである。私であることには違いないのに、これが幼少期なんだな〜と自覚症状があるものにしか反応できない。要はなんでも人間は記憶なんだろう。繰り返し繰り返し鍛錬をすることで物事を覚えるように、「これは自らの幼少期だ」と認識している写真ぐらいでしか私は何も覚えてはいられないのだ。

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この私はかなり好きだ。私ぽい。私の家はマンションの三階にあり、その向かいにはフェンスのようなものを挟んででかい公園が設置されている。これは恐らく、その公園に佇む私をマンション三階自宅から激写したのだろう。挑発的な煽り顔がなんと似合うことか。生意気な子供だっただろうな。私の名前はなかなかに珍しく、知らない大人に覚えられて誘拐でもされれば困ると考えた母は私のことを「P」と呼んでいた。中学生の頃韓流のものが好きだったあみちゃん(仮名)という子が「チャン・アミ」と呼ばれ、結果「チャン」と呼ばれていたことを思い出す。理屈としては同じだ。「アンピー」と呼ばれていたものが本名の「アン」の部分が消え「P」だけ残った。

行ったことのない町に行った。
知らない土地にもイオンがあって、イオンみたいな建物があって、NEW OPEN されていて。普段京都のほぼ都会みたいな栄えているところしか通らないから、こんな辺鄙な街に……? という度し難い感想を抱いた。もし人が死んでいくしかない村があったとして、そこは大切にすべきなんだろうか。私の救いようがない部分はここだろう。世の中大半のものを訝しみ、嫌疑の目を向ける。いい人間であったことは恐らく1度もない。そこはかとなく全てが嫌いだ。そういう風潮? 性格? が要はほかと自分は違うんだという無意識の自己評価の高さからくる厨二病だというのは随分昔から知っているが、直せた試しがない。無意識の行動を変えるというのはどうすればいいのだろう。大阪環状線の発車メロディに乗って騒ぐ子供の瞳の中をじっと見ていた。次は西九条。

卓球をまったくやった事がないのに卓球をすることになった男2人の漫画を描こうとして断念した。特に面白くないからだ。0から1を生み出す行為がとても苦手だ。1を10にかえるのは得意。こうしたらどうか? ああしたらどうか? と、既に与えられたおもちゃを改造するのが得意で、そこにどんどん『それ』が『それ』である意味を付与していくのが楽しい。卓球の男たちはまったく面白くない。卓球をしたことないならすればいいからだ。卓球に苦手意識がある人間が卓球をしたくないがために卓球から逃げ回るのはもしかすると面白いかもしれないが、卓球をしたことがないなら卓球を試しに1度してみればいい。大きな意味でこの世に恥ずかしいことなどないし、それに「卓球をしたことがない」ことを馬鹿にしたり恥ずかしいものだと認識する人はほとんど居ない。主人公たちの心理的なハードルがとても少ない。おもしくなかった。漫画は描きたいと思うんだけどね。

人から「好きなものが多いね」と言われることが多いし、自分でもそう思う。が、「大切なものが多いか」と問われると全くそんなことがない気がする。自分の行為で他人が困っていた場合、正当な理由があるなら私はいくらでも酷い態度を取れる人間であるが、そこに「こいつを巻き込んでもいいのか」と言われた時に「絶対巻き込みたくない」という強い意志を持ったことがある。その時に初めて「ああ、私この人のこと大切なんだ」と実感した。自分には感情がないなんていううすら寒いことを思ったことは無いが、この感覚は少し面白くて、感心さえした。大切なんだなあ。

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こんなに大きくなりました

特にいじめられた経験がある訳でもないのに、自分の顔が醜いものだと思っている。毎日鏡を見ながら化粧をする。その瞬間は別に苦ではない。なんなら楽しい。自分が可愛くなった気がして、鏡に向かってニッコリ笑いかけたりもする。しかし私は知っている。鏡で見えている自分と、写真に写る自分が違うことを。顔の無意識の修正が脳内で行われていることを私は知っている。それってとても恐ろしい。

破顔。



おわり


文:山田世紀末

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