職人記

 八王子の髙橋は陰キャのチー牛で、令和の元年、若くして公務員となったが、ついに試用期間を終えることなく無職となった。彼は無類のラジオ好きであり、職を辞してからは構成作家を目指し、そういった作家の養成学校に通うでもなく、人と交を断ち、ひたすらラジオの投稿コーナーへ送るネタ作りに耽った。まずハガキ職人として、自身の名声を世間やラジオ業界へ広めようと思ったのである。しかし、髙橋、ラジオネーム便邪眠(ベンジャミン)のネタは半年の時を経て二、三の採用にしか至らず、公務員時代の貯蓄は瞬く間に減っていく。自らの預金残高を見、便邪眠は漸く焦燥に駆られてきた。この頃から便邪眠の相貌はひどく、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒に炯々として、更には早朝にAPEXをして奇声を上げ、近所の者から目を顰められるようになっていた。数年の後、親と近所の目に耐えられず、コンビニで夜勤を始めることとなった。しかし、コンビニで働くにあたり、己より遥かに年下である大学生に指導を受けるということが、いかに便邪眠の自尊心を傷つけたかは、想像に難くない。彼は初日にして休憩に入るなり何やら訳の分からぬことを叫びつつコンビニを飛び出すと、闇の国道20号へ駆出した。彼は二度と戻って来なかった。附近のネカフェを捜索しても、何の手掛りもない。その後、便邪眠がどうなったかを知る者は、誰もなかった。

 翌年、東京で公務員を勤める岡野は、どうでもいいような会議に出席するため、愛車のセダンで早朝より甲府へと向かっていた。昨晩、上司から、国道を使うのなら熊が出るので注意するようにと半分冗談のような口調で言われた。ニュースサイトを見ると、どうやら死傷者こそ出ていないが、この一年の間、相模湖付近の国道20号沿いで熊の目撃情報が相次いでいるようであった。しかし、高速料金を節約するために、岡野は中央自動車道でなく、国道20号を使って甲府へと向かった。
 岡野が相模湖へ差し掛かったその瞬間、ヘッドライトの向こう、数百メートル先に、黒い塊が動くのが見えた。まさかと思い、車を急停車させたが、黒い影はずんずんとこちらに近寄ってくる。影は紛うかたなく熊であった。熊はあわや岡野のセダンに襲い掛かるかと思われたのだが、忽ち身を翻して、道の脇の叢に隠れた。すると、開けっ放しだった窓の外、叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟くのが聞こえた。その声に岡野は聞き覚えがあった。恐懼の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、叫んだ。「その声は、まさか、便邪眠ではないか?」
 岡野は便邪眠と同年に公務員試験に合格し、友人の少かった便邪眠にとっては、最も親しい友であった。公務員の頃より、便邪眠が自らのラジオネームを教えていた唯一の人間でもあった。温和な岡野の性格が、峻峭な便邪眠の性情と衝突しなかったためであろう。
 叢の中からは、暫く返辞が無かった。しのび泣きかと思われる微かな声が時々洩れるばかりである。ややあって、低い声が答えた。「如何にも、私が東京都八王子市、ラジオネーム便邪眠である」と。
 岡野は恐怖を忘れ、セダンを降りて叢に近づき、懐かしげに久闊を叙した。そして、何故叢から出て来ないのかと問うた。便邪眠の声が答えて言う。このような獣の醜悪な見目となってしまった自分では、君の前に出て行っても不快な思いをさせるだけである。しかし、このような身となった私の話を、少しでいい、聞いてはくれないだろうか。
 後で考えれば不思議だったが、その時、岡野は、この超自然の怪異を、実に素直に受け容れて、少しも怪もうとしなかった。岡野は叢の傍らに立って、見えざる声と対談した。都の噂、旧友の消息、岡野が現在の地位、それに対する便邪眠の祝辞。青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それ等が語られた後、岡野は、便邪眠がどうして今の身となるに至ったかを訊ねた。草中の声は次のように語った。

 一年前、コンビニから逐電した自分は、山林の中を当てもなく歩いた。山梨の方へ向かえば、やがて富士山麓に着く。そのまま富士の樹海に入って、そのまま異界へ行けるのならば行きたかった。しかし、そのような体力はあるはずもなく、この相模湖まで来たところで力尽き、死ぬように倒れこんで、深い眠りに落ちた。
 やがて目が覚めると、自らの体躯が明らかに人でなくなっていることに気が付いた。二足で歩くこともままならず、四足でひたすらに歩き回っていると、相模湖へと出た。相模湖に映る自分の姿に驚いた。自分は熊になっていたのだ。
 これは悪い夢であると思った。しかし、再び眠りに落ち、目覚めたとき、未だ自分が熊の姿であり、どうにもこれが夢でないらしいことに気が付いた。いったい何故こんなことになったのか、見当もつかない。
 そう考えていると、ふと一匹の兎が目の前を通った。瞬間、自分の体の中から、人間の理性が消え去った。次に正気を取り戻したときには、目の前には兎の毛が散らばっており、自らの両手は血に塗れていた。これが熊としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。
 一日のうち数時間は人間の心が還ってくるのだが、その時間も日を追うごとに短くなっていく。最近では、いったい何故自分は人間だったのだろうかと考えている始末だ。恐ろしい。ああ、きっと私はこのまま、幾日のうちに、本当に人間の心を忘れ、獣に成り代わってしまうだろう!
 そうだ。そうなる前に、自分が人間であるうちに、一つ頼んでおきたいことがある。
 他でもない、自分はラジオの構成作家というものに憧れていた。それ以前に、有名ハガキ職人として名を遺すつもりでいた。その目的はもう果たすことはできない。しかし、私の頭にはいまだ数百の投稿ネタが残っている。これを聞き、どこかのラジオのコーナーへ送ってはくれないだろうか。これによって、一人前のハガキ職人を名乗りたいわけではない。ネタの巧拙はともかく、生まれてからずっと執着してきた投稿ネタを、一つも後世に伝えられないのであれば、死んでも死にきれない。

 岡野は静かに便邪眠の独白を聞いていたが、彼の最後の頼みに、首を縦に振ると、懐からiPhoneXを取り出し、メモ帳アプリを立ち上げた。便邪眠の声は叢の中から朗々と響いた。ふつおた、替え歌、謂れなきやっかみや僻みにウザ絡みなど、様々なネタの数々は、一聴して彼の才の非凡を思わせた。しかし、岡野は、そのネタを聞きながら、漠然と、面白いけどそこまでじゃねえなと思っていた。
 ネタを言い終えた便邪眠は、突然調子を変えて、声を詰まらせながら言った。

 恥しいことだが、こんな身になった今も、夢で、自分のお便りが採用され、爆笑をかっさらい、有名ハガキ職人にTwitterをフォローされ、ツイキャスをすれば百幾人がいつも聞きに来る生活を見るのだ。
 そうだ、最後に、今思いついた、とっておきのネタがある。こういう、ふとした閃きによるネタの方が、作りこんだものよりも、採用されてしまうことがあるのだ。どうか聞いていってくれ。

「ちんちんは、大きければ大きいほど、えらい!」

 便邪眠は満足そうな声で最後のネタを言うと、また苦しそうな声に戻って、自らの人間の意識が遠のいていっている、早く逃げてくれ、と岡野へ忠告した。
 岡野は頷くと、身を翻してセダンに乗り、アクセルを踏み込んだ。

 数日の後、岡野はいくつかのラジオにラジオネーム便邪眠で彼から託されたネタを送ってみたが、それらが読まれることはないまま、時が過ぎていった。
 ある日、便邪眠名義でネタを投稿した、ある芸人のラジオを聴いているさなか、ふとTwitterのタイムラインに目を落とすと、相模湖の熊が射殺されたというニュースがあった。岡野は目を瞑り、便邪眠の冥福を祈った。
 その時、電波に乗って音質の悪くなった芸人の声が、次のコーナーを告げた。次のコーナーは、ウソ豆知識のコーナーだ。豆知識と称して、それっぽい嘘を送るコーナーである。確か、このコーナーに送ったのは、と岡野が思い出しているとき、最初のお便りが読まれた。
『東京都 八王子市……』