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「恋するミナミ」コメンタリー上映会で考えたこと

2021年12月20日、大阪ロフト プラスワンウエストにて開催されたコメンタリー上映会に参加してきた。

私は今回が初めての参加だったのだけれど、実はこのイベントは本作を公開した年から毎年開催しているのだそうだ。リム・カーワイ監督の新作「カム アンド ゴー」の公開直後とのこともあり、会場には、2回目、3回目の参加という猛者も多数いらっしゃって熱気が溢れていた。

本来なら「映画について、この会についてレポートすること」が、今後参加してみたいと思う人に向けた発信の肝なのだろうと思うのだが、私はいつも個人的な体験に寄せた話しか書けない。今回も、会場で感じた超絶個人的な話を延々書く。

開演30分前に到着すると、会場には本編のメイキング映像が流れており、「不倫される妻」を演じた藤真美穂さんが、カメラを向けられて目を潤ませていた。
「映画のことを考えると辛い気持ちになる、オフの時にミナミの街を歩いていても、子育てして、家庭を支えて、頑張ってきたのになんで?!と叫びたくなる、実際に叫んでしまう」
藤真さんはそういう意味のことを話されていた。すごい。実際にはこの時の藤真さんは、子育てどころか、ご結婚もまだである。未知の世界のサレ妻になり切っていらっしゃるのだ。

それを見て思い出したのは、SF作家の新井素子さんの逸話である。
彼女のヒット作「ひとめあなたに」は、地球最後の1日を描いた作品だ。突然恋人に別れを告げられた主人公の女性が、やけ酒の二日酔いから目覚めると地球に巨大彗星が衝突するというニュースが流れている。今日が地球最後の日であることを知った彼女は、最後の時間を一方的に別れを告げられた恋人と過ごしたい、せめて一目会いたいと家を出る。パニックに陥った暴徒が無茶苦茶にする街を歩き、遠くに住む彼のもとに向かうのである。彼女は、その旅の途中で次々と「壊れてしまった女」に出会う。非日常の中で、正気を保って見えるのはいずれも狂った人間ばかりだったのだ。
新井素子さんは、この作品を描いている間、主人公と同化し自分を保つことが難しかったという。食事がとれなくなり、眠れなくなり、身体にも影響が出てしまったのだ、と。

フィクションの体験を伝えるには、自らもそのフィクションの中に入り込んで、そこで得たリアルを伝えるしかない。藤真美穂さんも新井素子さんも、自分の住む平和な世界とは違う「過酷な物語の世界」に心だけ移住させ、そこから持ち帰ったものを表現した。それが仕事だからと言われればその通りなのだが、自分にはない才能に驚くしかない。

私が大学時代に少しだけ参加していた演劇研究会には、素人ながら「自分の体で表現したい」人たちが集まっていた。そのために、自分の体や感情を意思の統制下に置くことを訓練していて、例えば「寒い」と思えば、実際に鳥肌を立たせることができるのだった。彼らもまた、フィクションの中のリアルを伝えることを自分に課した人たちだ。

そんな環境にいながら私は、役者が肉体を使って表現している感情が欠片も理解できなかった。「涙」や「絶叫」や先ほど例に挙げた「鳥肌」のように、わかりやすく表に出してもらえたものはわかる。しかし、「悲しみがあふれそうになっている」「絶望で苦しい」など、役者がただ立って、今感じている感情を表現している時、それを読み取ることが全くできなかった。演出家が「OK」を出す時とそうでない時の違いが、さっぱり分からなかったのである。「え?さっきと今とどこが違うの?」と。私には、おそらく細かい表情の違いや体が発する何かを読み取る機能にバグがあるのだと思う。

役者の表現が理解できない以上、作品はストーリーで面白いか否かを判断するしかない。普段、私が映画を見るときも、ハリウッド映画のような「単純明快で起伏があって面白いもの」ばかり選んで見ている。「ストーリーを楽しむ」以外の鑑賞方法ができないからだ。

そんな背景を持つ私にとって、セリフでの説明が少ないリム監督の作品は、いずれも難解だ。『恋するミナミ』も一回見ただけでは、「?」が渦巻いていた。ところが、コメンタリー上映会では、映画鑑賞の鬼・田中泰延さんがピンポイントで「役者の見方」を教えてくれる。

「見ました、今の表情? 彼女は、実は最初から彼のことが気になっていたんですよ。一目見ていいなって思ってたんですね」
「ここ!この顔。憎からず思っていた男が、ほかの女と一緒にホテルに!という場面を目撃してしまうんですよ。ショックですよねえ」
「見られた男の方も、誤解なんだけど、どう解いたらいいのかわからない。悶々としてるわけです」

なるほど、そうだったのか!!実はそんなドラマだったのか!!
どこが「恋する」ミナミなのか、さっぱりわかっていなかったのだが、ようやく腑に落ちたのだった。

上映後の監督へのQ&Aタイムも面白かった。
王道ラブストーリーのように、出会って、もりあがって、別れてという一組の恋愛を追いかけるのではなく、同じ作品の中で、あるカップルの始まりと、別のカップルの別れ(不倫の修羅場があっての別れ)を見せたのはどうしてなんだろうか?と疑問に思ったので質問してみたのだ。
その時の監督の答えを要約するとこういうことかと思う。
「僕は、恋愛のラブラブ期には興味がない。どうやって恋愛が始まるのか、どうやってその恋愛が終わるのか、そこに興味がある」
どんな恋愛も発情している期間には大きな差はないが、開始と終了はカップルの分だけ物語がある。違いに興味があるといいうのは、そういう意味なのかと理解した。

純粋に年の瀬に「笑いたい」と思って参加した上映会だったが、肉体を使った表現を理解する手がかりや、テーマの切り取り方について、考えさせられた面白い会だった。

来年も開催される予定と伺ったので、興味がある方は、事前に映画の予習をしたうえで参加すると楽しいと思う。


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