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天狗党の防寒ってどうなってたの?

またまた過集中してしまった。しまった、時間が無い。

先日このノートを書いて、ますます、天狗党が気になっている。
たけださんの健康法も気になるけれど、岐阜から福井まで雪の山道を越えてきた彼らの防寒具が気になるのだ。

先ほどまで、GoogleMapに彼らの足跡をプロットしていた。
いつかこれを、敦賀から逆にたどってみたいと思って、地図を作ったのだが、ちょっと見ただけで、冬にこのルートを気合だけで乗り切るのは絶対に無理だ、と思った。

だって、各ポイントをつなぐ道路のうち、二か所が現時点では途切れてしまっているのだもの。誰も通らないから、廃道になったってことらしい。具体的には⑦の大河原から、⑧蠅帽子峠をこえて⑨秋生に至る道。秋生はすでにダムの底に沈んだ村なので、生活道路として使う人はかなり前から存在していなかったのだろう。もう一か所は⑰東俣⑱仙木俣間。東俣から伸びる道は、途中で山の中に消えている。

クリックするとGoogleMapが開きます

先日、天狗党の防寒対策に関する資料がどこかに残ってないだろうかと思って、敦賀市立博物館に電話してみたのだが、

「投降した時に押収したものの目録は残っているのですけれど、さすがに着ていた服については……」

という回答だった。
でも、その方が教えてくれたのだが、揖斐(岐阜県揖斐郡)に天狗党が宿泊した時に「菓子屋がもうかった」という記録があるのだそうだ。甘いものに飢えていたのだろう。揖斐では、彼らにまんじゅうがとっても売れたとのことだった。

その方は続けておっしゃった。

「お金はちゃんと払う人たちだったみたいなので、その気になれば、ふもとの村で、防寒具くらい買えたと思うんですよね」

私もその点については、完全に同意だ。

「ですよねえ。いくら、茨城生まれで雪に慣れてないからって、これから登ろうとする山のリサーチくらいするでしょうしねえ。案内人も雇うでしょうし」

揖斐の人たちだって、軽装で雪山に行こうとする天狗党の人たちに、アドバイスくらいするだろう。

ところが、ネットで天狗党の防寒について探し回っていると、投降した時の記述にこんなのがあった。

 真冬なのに防寒着とはとても言えない粗末な着物、足元にはぼろぼろになった藁の履物、凍える手には端切れを巻いただけという軽装で、雪が積もった険しい山を越え、鉄砲や大砲といった武器も運んできたわけですから、疲弊は極限に達していたのでしょう。肺炎などの重病に倒れる者も続出していました。
 この時すでに、幕府軍は天狗党を待ち構えて包囲しており、もはや闘いなど続けられる状況にないことは、誰の目にも明らかでした。

天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」

うーん。納得いかない。
だって、天狗党がこんなにボロボロだったら、福井に入ってからずっと、つかず離れず追跡して来ていた大野藩のお侍さんたちが、さっさと打ち取っていたのではないかと思うのだ。大野藩の人たちは、天狗党に戦いを挑むどころか、町人を使いに立てて「いくら払ったら、何もしないで通過してくれるか」交渉させている。その上、2万6千両も支払ってしまっているのだ。凍傷で病人だらけの、ぼろぼろの人たち相手に。おかしくないか?絶対勝てちゃうのに、何をビビっていらっしゃったのだ。
これは、作家の創作ではないのだろうか?

とりあえず、今日まで敦賀図書館が、蔵書整理のため一週間休館していたので、明日、いろいろ探しに行こうと思っているのだが、これ、敦賀だけじゃ絶対見つからないと思うんだよなあ。

やっぱり、雪がとけて、バイクで走るのが辛くなくなったら、天狗党が敦賀まで来たルートをたどってみたいなあと思う。
せめて、還暦を過ぎたたけださんにくらいは、熊やシカの毛皮を着せてあげていたって記録が残っているとうれしいのだけども……。

**連続投稿30日目**


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