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「統一感」って言われても

私の中身は、常にとっ散らかっている。
あちこち、いろんなものに反応して、忙しい。

それでも、なんとかやっていけているのは、文章を書くことができるからだと思う。

文章を書くことは、私にとっては、バラバラのできごとを、つなげてストーリーにすることだ。
ストーリーができて、やっと「ああ、こういうことだったんだ!」と、身の周りで起きたことが客観的に理解できる。
そのために、書いてきたと言ってもいい。
つまり、書くことで「解釈」してきたのだろう。

その時は、何が起きているのか、よくわからない。
点でしかないから。
線や、面になって、全体が見えてくるのは、ずーっと後なのだ。

これは、本当に子供の頃から、無意識にやっていたことで、出来事の理解が間違っていることも、たくさんあったはずなのだけれど、その「解釈のし方」というフィルターが自分なんだから、仕方ないと諦めている。
死ぬまで誤解したまま終わることがあったとしても、それはもう、そういうふうにしか見られない私の責任だ。

さてそんな私なので、「常に出来事をつなげるための見方」としての、斬新なストーリーを求めている。
今に満足しているわけではないので、新しい見方が欲しいといつも思っている。

なので、漫画、映画、小説、アニメ、他人様の書いたブログや、YouTube、何からでもすぐに影響を受ける。

「その考え方、自分に必要?」
とインストール前に立ち止まって考えない。
衝撃を受けると、まず、飲み込んでしまう。
体に入れてみて、バリバリ影響をうけて、数年後になんか違うかも?と思って吐き出す。
一部分は、すでに、自分の体に取り込まれてしまっている。
たとえ毒でも、だ。

なので、私の考え方、物の見方、興味の対象、書くことは、たぶん、年代ごとに全然違うし、他人から見たら別人のようだろう。
統一感なんて、どこにもない。
その時その時の、チグハグな繋ぎ合わせが私なのだ。

で、ここからやっと本題。
「モノを売る人」が大事にしなくてはいけないのは、その世界観であり、アウトプットの統一感なのだそうだ。
これが、私には、ほんとうに難しかった。

障害を持つ人が織った「さをり織り」を販売していた頃のインスタのアカウントが、まだ残っているので時折見返すのだが、掲載写真の水準がブレブレで、出てくるものがちっとも安定しない。
月毎に違う人が撮っているみたいだ。

単純に、カラフルな色彩感覚に惹かれ、それを面白い、美しいと思っている時。
これだけ作っても、糸代にもならないなんて、世の中、何か間違ってる!と憤っている時。
これは売れないな、と諦めている時。

全部、写真を見ればわかる。
考えていることが、ブレブレだ。
メンタルが安定しない人間は、こういう作業に関わってはいかんのだなあ、とつくづく思った。

今日、友達のもこんから、もこん炉(Mサイズ)が届いた。
世界感とか、統一感って、こういうことだよなと思ったので、紹介したい。

まず、パッケージ。
箱の色合い、手触り、ロゴシール。
どれをとっても、「ザ・もこん炉」だ。

開けると、さらに丁寧に包装されたもこん炉が出てくる。
ここにも、ロゴシール。
可愛い。

同梱されているリーフレットも世界観から全く外れていない。

で、もこん炉本体。
私は、シリーズコンプリートしているので、せっかくだから全部載せるが、天然木と丁寧に選別した松ぼっくりだけをつかって、一定レベルの製品が作れるところが、本当にすごいと思う。
自然のモノなんて、品質がバラバラなのは当たり前なのに。

長く飾っているけれど、松ぼっくりから、虫が出てきたり、といったトラブルも一度も経験したことがない。

一人で作り続けているのに、この安定感。
「世界観」って、作れるものなんだ!という衝撃ったら、なかった。

でも、「作れる」とは言っても、それは、日々の努力の積み重ねであり、製品への愛情が欠かせない。
「もっと可愛く見せるには?」
「もっと良さを伝えるには?」
アイドルのプロデュースをやっているようなものだ。

製作者の安定したマインドと、安定した技術、それと製品への愛情。
「世界観」「統一感」とは、そういう、目に見えないものから始まっているのだろう。

私が、もこん炉を好きな理由が、ここにある。
常にブレブレな私にはできないからこそ、惹かれる。

長く製作者に愛されている製品は、持った時に、それが伝わるよ。

**連続投稿680日目**

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