みんな同じだと思うと辛くなる

中学生のころ、周りの友人が、テスト勉強をしながら深夜ラジオを聞いている、という話を聞いて驚いたことがある。
「真夜中に起きていて、どうして翌朝ちゃんと起きて学校に行けるのか?」
「どうして無関係な音を聞きながら、別の作業ができるのか?」
この2つが、私の最大の衝撃であり疑問だった。

私は今も昔も、8時間睡眠が基本だ。
テスト期間中であっても、日をまたいでまで勉強するなんて、考えられなかった。
その上、いっぺんに集中できるのはひとつのことだけ。
ラジオが鳴っていれば、ラジオの音に集中してしまうし、勉強に集中していると、ラジオの音はうるさいノイズであり、ストレスにしかならない。
音楽を聴きながら単純作業をする、というのも無理で、例えば漢字の書き取りをしながら、日本語の歌を聞いていると、漢字を繰り返し書いているつもりなのに、いつのまにか耳から入ったその歌詞を綴っていたりする。
外界の刺激に引っ張られやすいのだ。
その分、集中しているときは深い。

今は、自分の脳はそういう特性を持っているんだなとわかっているので、できないことで劣等感を持ったりはしない。
当時は優等生で、変にプライドが高かったせいもあって、他人にできることが、自分にはできないというのが許せなかった。
だから、周囲の真似をして、夜中まで頑張って起きていて朝寝過ごしたり、ラジオを聞きながら勉強しようとして惨敗したりしていた。
しかも、そんなに努力して聞いたオールナイトニッポンが、それほど面白いと思えなかった時の、がっかり感。
早く寝ればよかった。
ラジオなんて聞かなきゃよかった、と思ったものだ。

文章を書くときも同じで、今でも私は、ノイズがある状態では全く書けない。
BGMは邪魔だし、何なら人の気配ですら、神経に触る。
カフェでノートPCを開いて仕事をするというのに憧れて、何度かやってみたのだけれど、やはり、周囲の会話が気になったり、通る人が視界の隅でちらちらしたりするのがストレスで、まったく仕事にならなかった。

「人はみな平等」というのは、人権の概念としては正しい。
けれど、これを「みな平等=能力差は無いはず」と解釈すると、とんでもなく間違う。
人には生まれながらに、越えられない違いがある。
「与えられた能力も平等だ」という前提から抜け出せないと、できない自分をどんどん追い詰めて苦しくなる。
「慣れればできる」「気合の問題だ」「練習が足りない」「根性がない」
どれも子どものころよく言われた言葉だけれど、じゃあ、私にそう言った大人たちには、苦手なことはなかったのか?
まんべんなく、何でもこなせる人たちだったのか?
そんなわけがない。

学校教育を終えて、一番よかったことは「人には個体差がある」とはっきり意識できるようになったことだ。
得意と不得意を、根性論に還元しなくて済むようになったことだ。

最近、統一教会問題のニュースに関連して「洗脳」という単語を頻繁に耳にするようになった。
大きな逸脱は耳目を集めるが、日常に埋もれてしまっているものは、誰にも気づかれない。
学校教育で受ける洗脳をまず何とかしてほしいと思う。

**連続投稿297日目**


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