反出生主義者は理性的?
反出生主義は、しばしば理性的な主義であるとか、理性があれば必ずこの主義に行き着くなどと、反出生主義者を自認する人たちに言われがちであるが、果たしてそうであろうか?
わたし自身は反出生主義に賛同しているが、理性によって賛同しているという意識はまったくない。それに、反出生主義者を自称する人たち(そのごく一部ではあるだろうが)の見せる過熱的な振る舞いが理性的な態度であるとは到底思えない。
結論から言ってしまえば、反出生主義者は特に賢明でも暗愚でもなく、理性的か感情的かと言うならばむしろ感情的な存在であると思う。
理性についての過大評価
一、理性の力の過大評価
まず理性とはなにか?言ってしまえば理性それ自体は道具に過ぎず、「すべき」「すべきでない」といった答えそのものを導出しはしない。
たとえば、「苦痛は避けるべきである」という前提は、理性から発せられるわけではなく、感覚や感情から発せられる命令にしたがって出てくる前提だ。
理性は、苦痛の避け方を教えはしても、「苦痛は絶対避けるべきである」という命令そのものは発しないである。
人間活動における理性
詳しくはこちら(第一章)を参照していただきたい。
理性そのものが目的を定めることはないとすれば、苦痛を避けることを至上命題として掲げること自体が、そもそも理性的な判断によってのみから得られるものではないことが分かる。
苦痛を絶対悪として見るのは、最終的にはあくまでも(それがどれだけ大多数の人間に同意されようが)個々人の価値判断に過ぎないのである。
結論
「理性的であれば特定の結論に必ず行き着く」という主張は、理性がなにか目的を定める力を有するものだという、理性に対する過大評価から来るものである。
二、理性の力の過大評価二
以上のことから、理性のみによっては人は何らの目的も立てられないということが分かる。
では、いったい誰が、どれだけ理性的だと言えるのか?
その人の掲げる主義主張にかかわらず、人間はほぼ感情的な存在であると、わたしは考えている(もちろん、わたし自身も)。
誰も理性のみによっては行動できないとすれば、純然たる理性のみの人間などいるはずもないのである。また、理性についてよく考えた人間ほど、理性の限界(あるいは無力さ)をよく知るものなのではないだろうか?
「自らこそは理性的だ!」と誇らしげに言ってのける人間は、理性を過大評価しすぎていてまったく理性的ではない、とわたしは考える。
結論
理性的な人間とは、理性の限界(無力さ)を知っており、自らも(完全には)理性的になどなりえないことを必ず知っている者である。
三、理性の質の過大評価
理性的、賢明、などと言えば聞こえはいいが、それは打算的だとか損得勘定などという概念にも当てはまるであり、理性そのものは善悪のうちの善をただちに意味するものではないのである(そうであるなら、なぜ狡知や奸知などという言葉が存在するのか?)。
反出生主義はあくまでも道徳上の主題であり、実利のそれでは、ありえない。また、理性的でありながら本能的であることは十分に可能である。たとえば、子供が、目の前のお菓子を十分間食べずに我慢すれば、もう一つお菓子をもらえる、と言われた場合、十分間目の前のお菓子を食べずに我慢した子供は食欲という本能を理性で抑制したかに見える。しかし、その抑制は、食欲(本能)をより大きく充たすために理性を働かせた結果なのである。理性とは、徹頭徹尾、本能や感情の道具であり、奴隷であり、最高でもよき友人とまでにしかならないのである。
結論
理性は善悪を決定づけない。理性すなわち善、と考える者は理性の性質において過大評価しており理性的な人物とは言いがたい。
なぜ反出生主義者が理性的でないと結論されるのか?
第一の点
本記事に書いてきたように、理性を過大評価する人間が理性的な人間だとは思われないから。
第二の点
反出生主義を主張すること自体は、(実利的には)きわめて非利己的な行動であるから。
以前の記事に書いたように、新たな人間がまったく生まれてこないことは、すでに生まれてしまっている人間にとっては不利益しか生み出さないのである。
反出生主義自体が「苦痛(選好の不充足)は避けるべき絶対悪」だと前提する主張であり、それを主張する反出生主義者本人も、苦痛(不充足)を避けたいと感じている一個人であるのには違いは無いはずである。
であれば、反出生主義を掲げて実践を目指すことは、苦痛(不充足)を堪え忍んで、倫理や道徳に身を捧げるべきである。ということにならざるをえないのである。
そうした自らの身命を顧みない献身とは、理性よりもむしろ感情――もっと言うなら熱狂から生じるものであり、また他者にも(見返りなしに)同様の行動を要求する態度はほとんど狂信の域に外ならない。