祝祭

チャーミーはブルネットの髪と大きな目が印象的な、かわいい女の子。

「かわいがると死ぬ、と言われている呪いの人形。前の居場所の滋賀県の介護施設では五人が亡くなっている。」

チャーミーの下に書かれた説明書きを読んで思わず後さずったが、周りの人々は楽しそうな声を上げながらスマホでチャーミーを撮影している。

「撮影可。#祝祭の呪物展#で拡散歓迎。」

とチャーミーの背景ボードに書かれており、ツイッターを見ると相当数の投稿が検索に引っかかってくる。中には「撮影データーが理由もなく全部消えた」、「体調が悪くなった」などの体験談が書かれており、慌てて画面を閉じて撮影はしないことにした。

チャーミーの隣には木製で愛嬌のある表情の木彫りの猫が置かれているが、こちらも見た人は次々と、像の欠けた部分と同じ耳が聞こえなくなったり、猫に引っかかれたような原因不明の耳の傷を訴えているらしい。

入場してから展示物二体を鑑賞したところで早々と退場しようかと思ったが、一時間並んでやっと整理券を手に入れ、更に日本橋で四時間時間をつぶして戻って来たのだ。早く入れてもらう為に、会場ホテルのバーラウンジでドリンクも頼んだ。ゴールデンウィーク最終日の丸半日と五百円の入場料が無駄になると思い、かろうじて踏み止まった。

いや、そもそも私は何でこんなところに一人でいるんだ?たまたまフェイスブックで大盛況のイベントとして記事が上がってきたが、怖いのは人一倍苦手だ。

と、隣で二十代の男性が少し年上の男性二人組に

「写真撮らせてください。ファンです。いつも配信みています。」

と少し緊張を含んだ嬉しそうな声で尋ねている。よく見ると、先ほどラウンジで見かけた男性二人だ。どうやら、古今東西の呪物を集めたこの『祝祭の呪物展』の展示物の所有者達である。失礼だが「呪物収集家」という肩書でどうやって食べているのか気になっていた。どうやら呪物や怪談の動画配信も行っているらしい。デザイナーと二足のわらじ、という人もいた。年齢も二十代後半から三十代で身なりもスマートなので、言われなければ特殊な所業(?)の人だとは分からない。

呪物の横に添えられた説明書きを読めば、肺炎で三週間寝込もうが、家の給湯器とトイレが壊れようが、お祓いを断られようが、決して手に入れた呪物を手放さない彼らの根性に唸らされた。何でも出品者の一人は、リビングに呪物を五十体ほど並べているので、もう何が原因で不幸に見舞われているか特定できないらしい。

ここまでくるとオタクの趣味の範疇を超えて、立派なプロのエンターテイナーである。

この後も、胎児の遺灰と墓の土などを混ぜて作られたタイの願いを叶えるお守りクマントーン、百年前の呪いの釘、覗くと死ぬ手鏡、チベットの密教儀式で使われる罪人の大腿骨で作られた笛、ミクロネシアの呪術師のサメの歯付きメリケンサック、スケボーに乗ったハワイの縁切り蛙の置物など、素材も見た目もパンチの効いた呪物全二五点が並ぶ。

 それにしても、と思う。

 この呪いの種類と造形美のバリエーションの豊かさは、一体どこから来るのだろう。呪いが仮に実在したとして、そのパワーの源は超自然的な力かもしれないが、想像力とエネルギーをつぎ込んで呪物を創っているは間違いなく人間だ。いくつかの呪物は素材こそ骨や遺灰など禍々しいが、幸運をもたらしたり悪いものを追い払ったりと、「お守り」や「祈り」にとても近い。

 世界中でいつの時代にも、「呪い」も「祈り」も豊かに存在していた。

 信仰心がなくても恋愛や学業成就の祈願をしたことがある人は多いだろうし、七五三だってまじないの儀式だ。昔に比べれば、職業や恋愛は格段に自由に選べる。個人の努力で、望む現実を手に入れることはいくらでもできそうな気がする。昔は奇跡に見えた現象も、脳科学や心理学も含めた科学で解析すれば、呪物やお守りなしで実現できるはずだ。

 だが本当にそうなら、どうして現代の東京のど真ん中で行列ができるくらい人が集まるのだろう?イベント特有の若者の活気で、呪力もすっかり薄まっていそうな雰囲気だ。

結局今の時代になっても、いや、「親ガチャ」なんて悲しい言葉が生まれる今の時代だからこそ、個人が自分の人生と周囲の出来事に持つ影響力は実は微力で限界があると、みんな気が付いているのかもしれない。

呪物と来場者達両方の強烈な存在感に圧倒されつつ、そんなことを考えながら歩いていたら、お土産コーナーに出てしまった。小さなデザイナーズホテルの地下ギャラリーにあるので、見渡せる程の広さなのだ。しかし体感時間的には、三菱一号館美術館を一周したくらいの満腹感である。正直、あの規模で呪物を並べられたら気絶しそうである。

だがお土産コーナーは、ある意味で展示会場を上回るインパクトだった。

会場では「実際に覗くと危険だから」という理由で伏せて展示されていた「覗くと死ぬ手鏡」を模したミニミラーが千二百円で売られている。耳に霊障が起きるという猫の置物は人気者らしく、ぬいぐるみ、キーホルダー、ハンカチや靴下のプリント、そして九千九百円のスノードームと、引っ張りだこである。他にも藁人形キーホルダー、呪いのビデオのピンバッジ、など使い道の想像がつかない商品が並んでいる。

ここまで来て、私は自分が愉快な気分になっていることに気づいた。この商魂の逞しさたるや、天晴ではないか。

願いが叶わないとき、命がけの儀式は悲壮だが、それすらも商業エンターテイメント化して消費しながら生きている人間の方が、死んだ人間の思念よりも力強くしたたかで、リアルに迫ってくる。

よくよく考えたら、盆踊りだって不謹慎なエンターテイメントだ。人の骨や遺物を商売に利用するなんて、呪術師にしろYoutuberにしろ、それを娯楽も含めた何かの目的の為に購入する側にしろ、かなり無神経でエゴイスティックだ。

そもそも大変な時間と労力とリスクを負う覚悟を必要とする呪物の製作は、そこまでしても願いを成就させたいという、生身の人間の強い想いがなければ完成しない。

何かの本で、「悪魔が人間の歴史を知ったら、恐怖のあまり言葉を失うだろう」と読んだが、両手を上げて賛成したい。

生きている人間が、一番凶暴で怖いのだ。

そしてそれは、「生きている限り、何があっても大丈夫」という何の根拠もない世界に対する信頼感にきっと繋がっているはずだ。何も約束されなくても、生まれてきたら生きていくしかない。いちいち振った恋人や仕事のライバルの怨念に怯えていたら、自分の人生を歩けない。

嫌な例だが、呪いがリアルならプーチンは今頃生きていない。人間の欲望には、どんな生霊や悪霊も屈服させる強さがあるのだ。

展示物以上に観客からエネルギーをもらい、死の影を見て生に前向きになる、という他では体験したことのない強烈なアートだった。

後日談になるが、この呪物展に関連した座談会では、会場に煽られたゲストが自分の製作したお守りを売るのに、チベットの僧侶の骨を輪切りにして繋げたネックレスのパーツをおまけに付けて、もはやショップチャンネルの様相を帯びていた。

やっぱり、生きている人間が一番怖い。


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