ケアを受け取るには「ケアが足りていること」が必要

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という、身も蓋もない話。
そして、ケアが足りるにはどうすればいいか?という話。

最近仕事が忙しくなっていた関係で、上司と何回か打ち合わせをする機会があった。
その中で、上司からこう言われた。
「もろこしさん、『会社の業績を伸ばさなきゃ、職場環境をよくしなきゃ』と気負いすぎてる面があるね。業績とか職場環境は、僕ら職員が考えるべきことだよ。利用者であるもろこしさんはもっと気負わずにやっていいんだよ」

以前の私なら、こういうことを言われても「でも、私がちゃんと頑張らなきゃ…」と気負い続けていただろう。
しかし、今の私はこれまでに比べ、その言葉をすんなりと受け取ることができた。
今日も、これまでより余裕を持って仕事をして家に帰ってきた。

「ケアを受け取る能力」の向上を感じる。
生まれてから高校まで、ずっと不機嫌な両親をケアしながら育ってきた関係で、身体が勝手に他人をケアしてしまうことが多い人間になってしまった。
その影響か、学校でも大学でも、職場でも「ケアが足りておらず、ケアされたい人々」に近寄られがちだった。
そして、自分がケアを受け取るのもとても苦手だった。
「そのケアは見返りを求めるものではないか?」と疑って疲弊してしまっていたし、ケアを受け取る時も自分に不利益がもたらされないかと、いつも神経を尖らせていた。

しかし、公務員を辞めてから3年経ち、ずいぶんとそれが変わってきた。
自分が責任を背負える範囲を線引きするようになったし、安易にただ甘やかすだけのケアもしなくなった。
代わりに、自分の身体の声をよく聞いて行動するようになったし、「関係性が悪化してもいいから、その人のために言った方がいいと思ったこと」を相手に言うようにもなった。

それと同時に、信頼する人からのケアを疑わずに受け取れるようにもなりつつある。
今日、上司からのケアをすんなり受け取れたのも、その一環だろう。

なぜ私がケアラーをやめ、ケアを素直に受け取れるようになったかと言うと、「ケアがすでに足りていて、他人からケアされなくても生きていける」ようになったからである。

ケアをそのまま受け取るのは、実はけっこう難しいことだと思う。
ケアが足りない人は、「ケアを受け取るだけの心の余裕がない」ので、せっかくケアされても取りこぼしてしまったり、むしろストレスを抱え込んだりしてしまいがちだからだ。
しまむらに着ていく服がない問題と同じで、ケアを受け取るには「そもそもケアが足りている」ことが必要なのである。
私も、つい最近まではそうだった。

では、私がどうやってケア不足の状態からケアが足りている状態になったのか。
それは「自分が心地よく生存できる最低ライン」を明確にしたからである。

ホームレスになった時のことを想定して、1日お金を使わずに暇を潰して夜は野宿にチャレンジしたこと。
新潟で数日間、家に帰れず車中泊をしたこと。
生活保護申請中にお金がなくなり、残っていた白米とプロテインだけで3週間乗り切ったこと。
それらの「命の危機を自力で生き延びた経験」が、私に「他者からのケアがなくとも、自分が心地よく生存できる最低ライン」を教えてくれた。

それらは全て、他者からのケアを伴わない。
全て自分自身によるケア、つまりセルフケアである。
いくつもの「底に落ちた経験」が、私にとっての無形のベーシックインカムとなり、私を恒常的にケアしてくれるようになった。
生存の最低ラインを知ったという確固たる自信が、常に自分を守ってくれるセルフケアに変貌したのである。

この記事を読んでいる人の中にも「自分の生存の最低ラインが分からない」という人はいるだろう。
そういう人にオススメしていることがある。
「財布に1000円だけ入れて、スマホを持たずに1日外で暇つぶしをする」ことである。

1000円という縛りの中で、どれだけの暇つぶしを見つけることができるか。
その暇つぶしの数が多ければ多いほど、それは無形のベーシックインカムとなる。
私は1000円もあれば、1日じゅうぶん暇が潰せる。むしろ1000円だとちょっと余るぐらいだ。

あるいは、1000円ぽっちだと1日の暇は潰しきれなかった、という経験になってもいい。
それこそが、今のあなたの「最低ライン」なのだとハッキリするから。

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漫画を描いたり、日常生活を送ったりしていく中で得た気づきを残していきます。 一回1000円ぽっきりで100本以上の記事が読めるのでオトクか…