『永久保存盤』 静岡ロックンロール組合 CD解説書

巻頭言

 思い出して欲しい、35年前を。この国では、戦後の驚異的高度成長に陰りが見え始めた頃だ。俺たちは東海の地方都市、シズオカで十代の最後を過ごしていた。そこまでの十数年間に亘って世界をリードした欧米のビート音楽は、「ロック」と呼ばれて新しい価値観の象徴となり、まだ大きな可能性を残していた。全方位、特に第三世界に扉が開かれ、無限の進化を続けて行くように見えた。
 にもかかわらず、俺たちが実際に見聞き出来るものといえば、既存メディアの上で続けられる、芸能界のナンセンス劇だけだった。当時、極東の島国の「ロック」は一般認知とほど遠い地点にあり、物心ともに慢性的な困窮状態で喘ぎ、聞き続ける事にさえ運動的精神が要求された。田舎町においてはその状況は悲劇的で、舶来のブランド楽器や重装備のPA装置すら、想像力の彼方にしか存在し得なかったのだ。
 そんな事に負けてたまるか。世間知らずの未成年者七人は、果敢にも自力で立ち上がった。この『永久保存盤』は、八方塞がりの数年間を生き抜いた俺たちの、今も輝く証しである。

              静岡ロックンロール組合 理事長 鷲巣 功


静岡ロックンロール組合紳士録

 立ち上がった七人のサムライの回りには、少数だが理解者、協力者もいた。彼らもまた新しいロックの「何か」を欲し、飢餓感を味わっていたのだ。メンバーに続いて、運命的に出会ったカントリー・ジェントルメンを紹介する。

シャン(vo.)過敏な感受性で、他から刺激や影響を受けやすかったが、唱法は誰も真似の出来ない完全な彼独自のスタイル。このハイトーンが静岡の一部をロックした。

チャーリー(vo.)興味ある対象には恐るべき集中力で突進し自分の物にする性格。ブルース・ハープがその好例。以前のハードロック・バンドでのベースも、凄まじい腕前だった。

岩崎 孝弘(gtr.)グループサウンズのファンからハードロック・ギタリストに転向。そこから正統的に受け継いだ過大な音量で、周囲はもちろん内部からも常に苦情が続出。

近藤 良美(gtr.)情報不足の中、ボトルネック奏法に着目し71年になんとか体得。スライドバーが市販され一般化するまでは、旧市内でただ一人の男だった。

鷲巣 功(pf.)ピアノは幼少時の習い事の延長。早くから裏方仕事に意義を見出し、源泉不明のエネルギーで、周囲を巻き込みながらドン・キホーテ的に暴走。

川口 富義(b.)当時からリズム・アンド・ブルースを好み、渋い味わいの演奏は外部からも高い評価を集めていた。その後4ビートをマスターし、ビッグ・バンドでも活躍。

竹内 康博(ds.)カーマイン・アピスに憧れていた。3年間50円玉を貯めてシンバルを購入。ギターやヴォーカルもこなし、今なお現役として全国各地に出没中。

 トミ、イヅミ、チョロミ(bgv.)雙葉学園高校に通っていた三人娘。それぞれが独立した歌い手。組合メンバーにバック演奏を依頼して、逆に引き込まれた。周辺にいた唯一の女達。

八木 徹(b.)予備校卒業後、良美にそそのかされてベース(グレコSG型)を購入。かんばと入れ替わる形で組合解散後のグループに参加し、ビータ、ハコを含む活動を共にした。 

阿部 吉剛/小野 泰司(録音)市高で鷲巣の後輩。音楽室での出会い以降強制労働。テープデッキ二台を供出。後に吉剛はジャニーズ事務所を経て、佐野元春のバックバンドで鍵盤を担当。

森下 憲(ジャケット画)市高美術部出身。卒業後北海道で生き延び独自に彫刻の道を歩む。二科展で特選受賞。ジャケット以外に、解散公演のステージに吊られた大髑髏画も彼の作品。

岡畠 徹(写真)当時アサヒペンタックスを所有。鷲巣と同じクラスの縁で「サンシャイン・コンサート公式記録員」に任命され、あまり興味のないまま付き合わされた。

山田 裕一(周辺雑務)チャーリー、良美と同じ小学校、鷲巣、ハチとは同じ高校。そして5人は同じ中学。西村寛監督の組合記録映画制作に参加。レーベル・ロゴのゴム印も制作。

森 幹男(すみや本店)主にLM(軽音楽)楽器と3階ホール催事企画を担当。弦とピックしか買わない客のために、常識を超える協力をさせられた被害者。ジャズ・ドラムを叩く。

永井 良昌(すみや新静岡センター店)知識と行動力で静岡のロックを新時代に導く。音楽フリーペーパーも編集発行。エレキバンド時代にはベース担当。現在「人と音楽研究所」主宰。

藤波保彦、俊彦(さんき党)組合員より少し上の世代のロック音楽愛好家グループの中心人物。両者は双子の兄弟。実家が八百屋という関係でチャーリーとも以前から顔見知りだった。

真木はやと(サンシャインコープ)富士宮市出身。京都の「スラッシュ」でドラムス担当。サンシャインコンサート発起人。村八分と懇意で古都の新しいロックの動きを静岡に持ち込んだ。


静岡ロックンロール組合年譜

 すべてが動き出したのは1969年の夏だ。サマー・オヴ・ラヴの余波は2年遅れてこの地方都市に届き、義務教育終了目前の未熟若輩者たちを揺さぶった。

1969年

*市立東中学校で、近藤良美、チャーリー(森下均)、鷲巣功、ハチ(竹内康博)が、ロック音楽への興味を共通項として急接近。

*市立高松中では、熱血教師の尽力で文化祭に3つの「エレキ」バンド登場。別々のグループで岩崎孝弘、かんば(川口富義)、シャン(渡辺国幸)がステージに上がる。
*鷲巣、良美、エレキもないのにファズ(エーストーン FM-2)を共同購入。

1970年
1月
*静岡新聞売買欄に出ていたギター・アンプ(グヤトーンGA-640かその後継機)を、鷲巣、良美が共同購入。良美の家で練習らしき事が始まる。
4月
*孝弘は県立商、かんばは市立商、シャンは静岡学園高、鷲巣とハチは市立高、チャーリーは東海大一高へ進学。良美は滑って予備校生となり、そこで藤枝市から通う八木徹と出会う。
*鷲巣と良美、新たなブルーズ的バンドのメンバー募集をラジオの深夜番組で行うため、静岡放送をいきなり訪ねる。折しも「生」と思っていた目当ての番組の収録中で大いに戸惑う。告知は放送されたが問い合わせは全くなかった。
5月
*孝弘、すみや本店3階で土屋昌巳(その後「一風堂」など。富士市出身、当時日大三島高生)の演奏に接し、仰天。即座に同形ギター(ヤマハ SAシリーズ)を購入。その場には鷲巣と良美も居合わせたが、出会いとはならず。
7月
*ハチ、両親の説得に成功し、新品ドラムセット(パール製ダイナマックス)を手に入れる。
*映画「ウッドストック」有楽座で公開。
*チャーリー、高校を中退。青果市場で働き出し、ベース(エルク製ジャズベース型)とアンプ(同、バイキング型)を揃え、ハチ、良美と正式にハードロック・グループを結成。名前は「アンノウン(Unkown)」。地元の盆踊りで初櫓。
8月
*鷲巣、京都へ旅。ロック喫茶、楽器店周辺を徘徊。比叡山のロック・フェスティヴァルでフラワー・トラヴェリン・バンドを観る。楽屋に潜り込んでジョーにブルーズ・ハープを教わる。
9月
*映画「レット・イット・ビー」有楽座で公開。
10月
*鷲巣、両親が留守の自宅でハチ、旧友の吉田典生(vo./gtr.)と夜通しのセッション。そこを共通の友人に連れられ、かんばが訪問。
* 孝弘、静商で知り合った菊本経巳(org.)と共に文化祭で派手なロック演奏を披露。菊本は市立篭上中学校在籍中の長島英明(vo.)、佐野泰之(gtr.)、山梨武彦(b.)、吉永慎太郎(ds.)らと結成した「フィンガーズ」のリーダーだった。

1971年
2月
*かんばの誘いで、鷲巣が「クイーン」に(pf./org.)で参加。他は孝弘、望月宏之(vo.)、佐藤悦久(ds.)。精肉工場裏で猛練習中、遊びに来たシャンと出会う。彼はもう高校を退学していた。
3月
*クイーン、フィンガーズと共に駿府会館で行われた健全な青少年団体の催事で初舞台。同じ舞台にはワウを巧みに操る日大三島高生中心のグループも出演していた。
*鷲巣、ミニコミ誌「月刊 花通信」を始める。定期刊行を死守するも5号で挫折的廃刊。
4月
*良美、めでたく県立東高等学校へ入学。ご褒美は念願のアリア製レスポール。
* SABA(Shimizu Amateur Band Association)主催のコンサートが清水市民会館で行われ、クイーンが演奏。同時に参加したフィンガーズは、69年ヤマハ ライトミュージックコンテスト(LMC)グランプリ受賞「ビーナス」のヴォーカリスト望月トム(浩)に気に入られ、その場で誉れ高き名を引き継ぐことになる。
5月
*鷲巣、校内生活解放を叫ぶビラ貼りの主犯として無期謹慎処分を喰らう。関連して学内外での華やかな各種活動も発覚。
7月
*孝弘、かんば、吉永慎太郎と3人で「あ」と名乗るハードロック・トリオを結成。流行中のグランド・ファンク・レイルロードの「孤独の叫び」を猛練習で完璧に仕上げ、ヤマハ・ライトミュージック・コンテスト(LMC)静岡大会に出場。その後、呉服町の夏祭りでも演奏し、永井良昌の目に留まる。同大会には良美、鷲巣も、佐野泰之、菊本経巳(b.)、安本一寿(ds.)らと急造バンド「忠正(ちゅうまさ)」で参加。演奏曲はオリジナルのブルーズ・インストゥルメンタル。「忠正」とは練習場所のそばにあった造り酒屋の名。
8月
*鷲巣、再び京都で深呼吸。ワタナベ楽器、十字屋などを回って情報収集。
9月
*本格的なブルーズ・バンドを目指してチャーリー、ハチ、良美と鷲巣、かんばが駿府公園で話し合いを持つ。ここに「ビッグ・チャーリー・アンド・ヒズ・ブルーズ・バンド」(BCBB)が結成され、以降、川合のチャーリー宅で毎週土曜日の猛練習を続ける。
10月
* NHKヤング・ミュージック・ショー「CCR」放映。
* 両替町通りの喫茶店「BIG」がロックのレコードを揃え、音楽好きが集まるようになる。
* 水落町には手作り小物、染色を扱う「ブレイクダウン」が開店。ぶっ飛んだ店主の求心力に、多くの変わり者が出入りした。シャンもそのひとり。
11月
*シャン(vo.)、孝弘、鷲巣、かんば、そして井上高秀(ds.)の4人、頭脳警察出演が目玉の静岡大学「騒乱祭」を目指し「八幡音協(やはたおんきょう)」を急遽結成。周囲にいた萩原 隆(以下ハギ)の実家の鉄工場や公園でまたまた猛練習。本番ではシャンの煽りに観客が立ち上がって騒ぎだし、一時演奏中断。「ばかっちょい」はここで初めて演奏された。鷲巣は清水市で売り出し中のギタリスト河島信之と初めて言葉を交わす。
* 元テンプターズの松崎由治が音楽を担当した東京キッド・ブラザーズの映画「ユートピア」が県民会館大ホールで公開される。鷲巣、映画監督志望の友人、西村寛に誘われ鑑賞。終了後に上映同行者から東京ロックンロール事情を聴取。
*駒形通り裏にベ平連関係者が「じゆう」という喫茶店を開業。目立った政治/文化的活動は行わなかったが、喫煙目的の制服を着た未成年者で大いに賑わう。同時期に横田の「寿限無」という駄菓子屋にも新しい人種が集まり始めていた。
12月
*チャーリーの同業者の忘年会でBCBBが初演奏。ダンス・パーティ形式のため、「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」「ホンキー・トンク・ウイメン」などのロック曲が主。

1972年
1月

* すみや本店3階でBCBBのお披露目ライヴ。八木徹 (b.) ほかの藤枝東高生で結成された「ぼくら」、清水から「河島信之グループ」がゲスト出演。途中でシャンが飛び入りし、八幡音協時代のロックンロール・レパートリーを披露。
*この場に真木はやと突如出現。静岡市で毎月ロック演奏会を開催する企画を持ち込む。協力を約束した永井良昌を中心に、静岡大学生やさんき党などロック好きが支援体制を形成、準備が始まった。その名も「サンシャインコンサート」。すみやの新静岡センター店が連絡事務所がわりに使われる。ここではLPの試聴が無制限に出来たので、多くの輩が溜まり数々の出会いの場ともなった。
2月
*第1回サンシャインコンサート、ブルース・クリエイションとエムを迎え駿府会館で開催。ブルクリは解散直後で、突如ブラッディ・サーカスと名乗って演奏を始めた。
3月
*第2回サンシャイン(カルメン・マキ&オズ、ガロ)のチラシ撒きが産業会館前で強行される。傍らのパチンコ屋から電源を借り、シャン、BCBBのメンバー他が生演奏。途中で周辺の商店から騒音で苦情が入り警察官出動。その後ここでの街宣活動は定着した。本番は前座にBCBBが出演。オズの春日博文が同い年と知りたまげる。楽器も演奏技術も音量もかけ離れていた。もうひとつの前座は浜松から来たモナという3人組。
*NHKヤング・ミュージック・ショー「ローリング・ストーンズ・ハイドパーク・コンサート」
4月
*永井良昌のプロモートで、BCBB浜松に遠征。
*第3回サンシャイン(フラワー・トラヴェリン・バンド)の前座に、シャンが新グループの「二本劣塔(他にハギ vo./gtr.、佐藤文夫vo./gtr.)」で出演。バック・バンドは、孝弘、良美、鷲巣、かんば、ハチ。
5月
*NHKヤング・ミュージック・ショー「クリーム」放映。
*第4回サンシャイン(はっぴいえんど、小坂忠)。前座は後にヤマハのポプコンから世に出た「キャデラック」のマネージャー、岩堀則秀(vo./gtr.)がリーダーを務める6人編成のジャグ・バンド「モグ」。それと「ばれんたいん」に改名した河島信之グループ。河島はその後79年に「エアーズ」というグループで東芝エキスプレスからデビュー。松任谷由実の楽曲だった。
6月
*第5回サンシャイン(加川良、武蔵野たんぽぽ団、遠藤賢二)は、開始以来の大入り。関係者一同、フォークの力に圧倒される。冒頭(客入れ時)で即席テーマ曲「サンシャイン・ロックンロール」を、4月の前座メンバーにチャーリーが加わった形で披露。これが組合の原型。
7月
* LMC静岡地区大会で、ハチと八木徹が「ベスト・リズムセクション賞」に輝く。参加した形は、県立焼津中央高校生のフォーク・デュオの助っ人。良美もギターを弾いた。その場でヤマハに誘われるが拒絶。東海大会出場権も放棄。
*第6回サンシャインに成毛滋とつのだ☆ひろからなるフライド・エッグ、フル装備で来静。リハーサルに潜り込んだ鷲巣、イギリス製「ウェム(wem)」のPAにぶっ飛ぶ。
*この頃から地元出身の高桐唯詩がライヴ現場に姿を見せるようになる。彼は市高のOBで、既に東京赤阪で音楽事務所「メディア・ラボ」を持ち、「難破船」というフォーク・デュオの売り出し拠点を静岡に定め、準備を進めていた。スタッフのひとりだった石上顕太郎は現在静岡市議会議員。
8月
*NHKヤング・ミュージック・ショー「スーパー・ショー」放映。
*七間町名画座で「ウィズ・ジョー・コッカー(Mad Dogs & English Men)」公開。
9月
*孝弘、突如退学。女友達と駆け落ちして町を出る。
* チャーリー、天理教の修行で総本山に籠もり、3ヶ月間の歌舞音曲と無縁の生活を送る。鷲巣とは文通で関係継続。
10月
*良美、ハチ、徹、「レッド・ルースターズ」を結成、人前で数回演奏。(vo./hca.)は、「ぼくら」に在籍していた大石保(タモツ)。彼はその後、神戸で彼はその後、神戸で一角の人物になったという噂がある。
*鷲巣、偽装受験勉強中に、突如LP制作と独演会開催を思い描く。それは即座に独断で企画決定され、以降は進学どころではなくなった。
11月
*篠原信彦(org.)を加えた重装備フラワー・トラヴェリン・バンド、横浜の新進気鋭グループ「ゲッセマネ」と来静。前座は地元のユージ・バンド。これは初代ビーナスのベース担当、小林雄治が結成したラテンロックのグループで、迫力あるパーカッションが売り物だった。
*シャンは何回か京都を放浪し、真木はやとのツテで村八分のたまり場「フリーゲート」に出入りしていた。ここから毎回、男の化粧などの新風を持ち帰る。
12月
*録音とコンサートへの準備として、ハチと鷲巣が周辺機器の製造に着手。
*鷲巣、壮大な企画概要をすみやの森幹男に説明し、協力を取り付ける。
*チャーリー帰郷。

1973年
1月
*孝弘、出戻る。全員が揃ったところで解散公演とLP制作計画が承認される。ここに初めてこの集団が「静岡ロックンロール組合」と命名された。
*山田裕一と小野泰司、学校を抜け出し、県民会館のスタジオ、ホールを予約。
*静岡からも大挙鑑賞上京の予定だったローリング・ストーンズ来日公演中止。
2月
*鷲巣、受験名目で上京。新宿武蔵野館で「ギミー・シェルター」鑑賞、メディア・ラボやプレス会社の東洋レコーディング訪問、ロック喫茶やレコード店、楽器屋の視察と多忙に過ごす。
*すみや本店3階で練習を開始した組合は、即座に「騒音」が原因で追い出された。そこへ七間町のダンスホール「キングスター」が救いの手を差し延べる。オーナーは宣伝カーの中から、機材運搬中の組合員を見つけ声を掛けた。店では営業前に猛練習、開店後4回のステージを務める。ダンスは既に「ニュー・ソウル」の16ビート時代で、客の評判は全く良くなかった。
3月
*LP録音開始。最初のプレイバックには、全員の歓声が上がる。ただし誰の記憶にも、機材の運搬や録音の準備と片づけの印象しか残っていない。
*25日、静岡ロックンロール組合、静岡県民会館ホールでいきなりの解散公演。努力の甲斐あって700名ほどの客席は満員。充分に盛り上がり、比較的うまく行った。前座は岩堀則秀の新グループ「マムリヴァー・クレイジー・バンド」。
*29日、最後の録音セッション終了。この日は編集作業のみ。
4月
*東洋レコーディングにマスター納入。
*鷲巣、東京で収録の高桐唯詩がDJを務めるラジオ番組(すみや提供)に出演。『永久保存盤』から2曲ほど放送。何の反応もなし。
5月
* すみや3階で地味に『永久保存盤』完成発表会。ここに静岡ロックンロール組合の活動は停止した。

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 当事者達の記憶をたよりに綴った組合史は、1971年から73年までの旧静岡市周辺のロック絵巻でもある。もちろん事実誤認も多いだろうし、ここで語られていない動きもあった筈だ。それはともかく、荒野の七人のサムライたちは、こんな中で十代の終わりを過ごしていた。

永久保存盤録音顛末記
 この『永久保存盤』にはすべての面で悔しさがつきまとう。ことさら音響に於いては顕著だ。当時、録音の経験など誰にもなかった。以下、明らかになっているデータのすべてを記す。

*録音場所:静岡県民会館第一スタジオ
当時市役所の並びにあって静岡県民会館と呼ばれていた建物には、以前NHK静岡放送局が使っていたスタジオが、市民コーラスなどの練習に貸し出されていた。旧市内では他に適当な場所もなく、歴史的録音はここで行われる事になった。広さは、天井4m縦12m横7.5m(推定)。機材はすべて持ち込み。「貸し出し対象外」の調整室跡も無理やり頼み込んで使えることになったが、ケーブルの送り回しなどでは、大いに苦労した。

*録音日:セッションは4日間ほど行った筈だが、LPに付属のデータ表によれば、1973年の3月22日と29日で録音された事になっている。最終日は編集作業だけだったので、これに従えば22日にすべてを録音したことになる。まさか1日で11曲録音とは・・・。とても信じられないが、あり得ない事もないような気もする。その他「ばかっちょい」がなぜかモノーラルだったり、当事者にも解明できない謎は他にも多々ある。なお同トラックの1分2秒で音飛びがあるのは、テープ損傷によるもの。LPの時からこの状態。

*機材一覧
調整卓 ヤマハ アンサンブルシステムEM-60(6ch)とEM-90(6ch)
エフェクタ−類 EM-90に内蔵のリヴァーブのみ。リミッターなど一切なしだった。ヴォーカルの歪みは「21世紀の精神異常者」を真似しているのではない。
録音機1. ソニー ステレオ・デッキ(おそらくTC-350かTC-250)
録音機2. 同、モニタースピーカーが付いた語学練習用(おそらくTC-200)
共に4トラック19cm/sec.あるいは9.5cm/sec.でしか録音できない
テープ ソニー HF550
マイク/スタンド類 周囲の使える物、借りられる物すべて。春休み中だった学校の放送室からの持ち出しもある。それでもミキサーのチャンネル数には足りなかった。

*楽器:パール製ダイナマックス・ドラムセット、エルク製バイキング型ベース・アンプ、グヤトーン製GA-64型ギター・アンプ、ヤマハ製YA-30型ギター・アンプ、スタジオ常設のヤマハ製アップライト・ピアノ。ヤイリ製アコースティック・ギター。
* 技術担当者:阿部吉剛/小野泰司。共に特別な録音の知識、経験はなくテープを掛けたりレコーダーの録音レバーをひねって起動を確認し、ブース内に開始の合図を送るのが主な役目。
* 録音方法:歌も演奏もすべて同時。何か間違いがあれば、全員でもう一度最初からやり直し。テープも消しながら再録音。モニター類は一切なく、録音ブースの中では生の音が鳴っていただけ。本当によく演奏できたものだ。
* マスタリング:LP盤では、オリジナルの音質がかなり損なわれていた。今回はマスター・テープを「ロースト」(レンジで低温長時間加熱)した上、TASCAM 34Bで再生しデジタル・データ化した。パンポットなしの調整卓による不自然な定位には、少しだけ修正を施した。
*移動運搬: 車を持っている理解者の都合が着かない時は、自転車屋から借りたリヤカー。市内は坂道が全くないので体力的には楽だったが、昼日中に目抜き通りを走るのは、恥ずかしいという意見が多く出た。

永久保存盤名曲解説

 『永久保存盤』に収められた楽曲は全部で11。それまでのライヴ・レパートリーと書き下ろしが、ほぼ半分ずつだった。以下は初めて語られる傑作の真相だ。

01. シャンのロック(渡辺国幸-鷲巣功)ロック・シンガーたるシャンの所信表明。第3回サンシャインで披露し、絶賛と爆笑を買った。当時は自信満々だったが、いま聞けば確かに笑える。

02. レインボウ・クイーン(森下均-鷲巣功)深夜ラジオで流れたD.ボウイの「ジーン・ジニー」から閃き、即完成。新宿歌舞伎町のロック喫茶のウェイトレスへ捧げられている。初演。

03. お金がいちばん(渡辺国幸-鷲巣功)レコードは店頭試聴、コンサートは潜り込んでタダ見。雑誌は立ち読み、移動は自転車。こうして生き延びていた貧乏少年の資本主義に対する恨み節。

04. とんずらブルース(森下均)BCBB時代からのレパートリー。作者自らによるメリハリの効いたアレンジが光る。彼は当初から能力以上の激しい演奏を要求、周囲は大いに当惑した。

05. ロックンロール・ナンバー・ワン(渡辺国幸-鷲巣功)ハードロックやプログレに馴染めなかった少数派の遠吠え。題名は「メチャクチャNO.1」や「タムレ第一番」などに倣った。

06. 女と赤い花(渡辺国幸-鷲巣功)シャンの見た夢を基にした幻想物語、エキゾチックな音と響きでワールド・ミュージックの魁とした筈が、初演の際には最前列から笑い声が漏れていた。

07.今夜はバッチリ(森下均-鷲巣功)LPのB面はデタラメなコード展開をものともしない直線爆走曲で始まる。「火の玉ロック」と「J.J.フラッシュ」を一緒にする発想で作られた。初演。

08.徹夜ブギウギ(渡辺国幸-鷲巣功)ブギウギへの誤解が、「激しいダンス曲」という発想と癇癪を起こしたようなヒステリー的演奏で、奇跡的に実を結んだ。シャン、極限的絶叫。初演。

09. A39(森下均-鷲巣功)BCBBはブルーズ・バンドを名乗りつつも、誰もが思い浮かべる「ブルーズ的演奏」が苦手だったので、この機会に意地で挑戦した。題名に意味なし。初演。

10. 川合節(森下均)作者の天理修行の成果が結実。悟りの境地に踏み込んだ主題と轟きわたるダイナミックなリズム。ただ終盤の録音セッションだった為、不当に扱われた感あり。初演。

11. ばかっちょい(八幡音協-鷲巣功)静大騒乱祭出演を意識したメッセージ・ソングとして作られたが、「世は歌につれ」ない事を証明した。既にこの時点で、全体に敗北感が漂っている。

12. メンフィス(Chuck Berry)組合後のデモ。夢の2tr/38録音。ただこれは一度カセットを通った音。チャーリー、良美、鷲巣、ハチ、八木徹(b.)。鷲巣の訳には決定的な間違いがある。


 CD 永久保存盤/静岡ロックンロール組合 クレジット

01. シャンのロック    

02.レインボウ・クイーン 

03.お金がいちばん

04. とんずらブルース 

05.ロックンロール・ナンバー・ワン 

06.女と赤い花

07. 今夜はバッチリ 

08.徹夜ブギウギ 

09. A39

10. 川合節 

11. ばかっちょい 

12.メンフィス(未発表、ボーナス・トラック)

オリジナル・レーベル/番号:デッパ DSL-001735(1973年5月発表)

シャン(vo.)、チャーリー(vo.,hca)、岩崎孝弘(gtr.)、近藤良美(gtr.)、鷲巣功(pf.)川口富義(b.)、竹内康博(ds.)、トミ/チョロミ/イヅミ(b.g.v.)、八木徹(b. 12のみ)

録音:1973年3月 静岡県民会館第一スタジオ 技術:阿部吉剛、小野泰司
1974年10月東京渋谷アダン音楽スタジオ 技術:猪熊 実 (12のみ)
マスタリング:2007年9月オーブライト・マスタリング・スタジオ 橋本陽英
オリジナル・ジャケット・デザイン:森下 憲 
CDデザイン:打明聖文
写真:岡畠 徹 
全詳細記述:鷲巣 功
CD企画制作:根本直樹(DEC RECK)

熱烈感謝:真木はやと、永井良昌、森幹男、藤浪保彦、藤浪俊彦、川合本村の大将、ダンスホール・キングスター、山田裕一、伴野英一、ヤブ、甘糟亮、豪徳寺 亜舎梨、歌舞伎町 レインボー、金子音響計測サービス、東京キッドブラザース 井上誠、キングジョー(SOFT. HELL!)
タクミ(ラブロック)、モカ(JO-HOUSE)、サミー前田 (敬称略、順不同)


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