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人生という幻想

私たちはなんて愚かなのだろう。誰ひとり知らないのだから。人がなぜこれほどまでに人生を愛するのか、どれほど人生をながめ、つくりあげ、自分のまわりに築いては取り壊し、一瞬一瞬また新たにつくりなおすのかを。(ダロウェイ夫人/ヴァージニア・ウルフ)

10年前、慶應義塾大学の前野隆司教授(工学博士)が受動意識仮説を提唱したとき、ついに脳科学が般若心経の世界観を実証するようになるとは…と驚いたのと同時に、これからのAI研究に期待を膨らませました。

人の「意識」は受動的な機能に過ぎず、実は何ごとも自分で決めてはいないのではないか。心の主人のような顔をしている「意識」は、実は「無意識」または「深層意識」の奴隷なのではないか。そんな「意識」は、自分の体験をエピソードとして記憶できることが環境適応のために有利だから、進化的に生じたに過ぎないささやかな存在なのではないか。…つまり、人間とロボットは、私たちが直感するほどには違わないのではないか。
(脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? ~ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史/前野隆司/技術評論社/P3/2007)

私の兄は20代で統合失調症を再発してからずっと自宅療養してるのですが、症状の1つに自我意識(自己と他者を区別すること)の障害というのがあります。自分の行動や思考を誰かに支配されているように感じ、操られていると訴える症状なのですが、本人に病識(自分が病気だという認識)がないため、現実に起きていると思い込み、恐怖で暴れたり叫んだりします。他人からみるとまさに『狂気の沙汰』です。

統合失調症の原因については諸説あり、未だにメカニズムは不明ですが、最近では発症に関わる遺伝子も発見されています。健常者であれば、麻薬でも使用しない限り体験しないような幻覚や妄想が自然に起きるというのは、身近に統合失調症の人がいないとイメージしづらいと思います。私は兄と暮らす中で、自分は一体どこまでが自分なのか、自分に見えるものや聞こえるものはどこまでが現実なのかと考えるようになりました。

私たちが随意的にしていると思える複雑な言動も、雨水が花から滴り落ちて土に沁み込んだり、風が木々を吹き抜けて葉を散らすように、自然現象の一部といえるのかもしれません。うつ病になると死にたくなったり、余命を宣告されると生きたいと願うのは、夏になると涼しい場所に行きたくなったり、冬になると暖かい場所に行きたくなるのと似たようなもので、実は生命そのものが、私たちが考えるほど特別なものではないのかもしれません。

さらに、心理学者ジャネーが提唱した法則によると、心で感じる時間は年齢に反比例して短くなるため、寿命が80年でも30歳の時点で人生の8割は終わり、50歳になると9割方終わってしまうようです。デューク大学のエイドリアン・ベジャン教授(専門は機械工学)は、論文『Why the Days Seem Shorter as We Get Older』の中で、加齢とともに時間が早くなっていくように感じる理由について、より精密に考察しています。

教授によれば、感覚入力は断続的(途切れ途切れ)に、一定の時間間隔をおいて人体に受容される一方、人体の成長に伴い、感覚受容器(目、耳など)から大脳皮質までの距離(L)が長くなり、加齢による神経の劣化で速度(V)が低下し、1つの心的イメージが発生するまでの時間(t2)が長くなってしまい、結果的に心的イメージの発生頻度が徐々に低下して、時間が早く過ぎていくように感じるのだそうです。

The sensory inputs that travel into the human body to become mental images – ‘reflections’ of reality in the human mind – are intermittent. They occur at certain time intervals (t 1), and must travel the body length scale (L) with a certain speed (V. In the case of vision, t 1 is the time interval between successive saccades. The time required by one mental image to travel from a sensory organ to the cortex is of order t 2 ~ L/V.
The broad trend then is that L increases with age. At the same time, V decreases because of the ageing (degradation) of the flow paths. The key feature is that the physical time (the combined effect of t 1 and t 2) required by the occurrence of one mental image increases monotonically during the life of the individual. The frequency of mental images decreases monotonically, and non-uniformly (i.e. not at constant rate).

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(Adrian Bejan, Why the Days Seem Shorter as We Get Older, European Review , Volume 27 , Issue 2 , May 2019 , pp. 187 - 194)

ノーベル賞受賞作家カズオ・イシグロ原作の映画『わたしを離さないで』に登場する生徒たちは、神経変性疾患の患者などを対象とした臓器提供を行うためにクローン人間として生まれ、30年余りの短い生涯を終えます。彼らが運命に抵抗しないのは、誰も人生の支配者にはなれないと知っているからで、主人公のラストの独白が示唆するとおり、私たちの人生も彼らの人生と大差はなく、誰1人として十分に生きたと感じることはないのでしょう。



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