『凪の海』の感想

◼️『凪の海』を観ながら、この映画の題名が、なんで『凪の海』なのか、ずっとわからなかった。凪というのは登場人物の名前だ。凪さんは二十代の後半くらいの女性で、だから題名は「凪さんの海」、凪さんにとっては「私の海」という意味になる。◼️何年も経ってから人の気持ちに気付くことがある。その人についての断片的な記憶や、言葉にならない印象が、短くない時間を経て、自分の中で不意に筋道がついて、その人が抱えていた気持ちにやっと気付く。感情そのものに手が触れて「ああ、そういうことだったのか」と、途方に暮れる。その人と私は、もう簡単には会えないことがほとんどだからだ。◼️凪さんを演じているのは小園優さんで、私はこの春、小園さんと小さな撮影現場で数日を共にした。お芝居をしている小園さんを見ていると、瞼の奥に何かが込み上げた。喉の奥が絞めつけられた。楽しげに笑っていても、ボロ泣きしていても、ただそこに突っ立っているだけでも、私は小園さんを見ているだけで、何度もそんなふうになった。『凪の海』でも、小園さんは窓辺に立っているだけだったのに、また何かが込み上げた。タイトルロールにも関わらず、小園さんの出番は『凪の海』の中で、そんなに多くは無い。地方の漁村で起きた、ひとつの悲しい出来事に呼び寄せられた、何人かの人々の中のひとりだ。不自由な足を引きずって、兄とふたりで海辺で暮らす、口数の少ない女の人。久しぶりに顔を見せたかつての知り合いの隣に座っても、黙ったまんまの変な女。不可解にも思えるのは、凪さんだけじゃなかった。不意の出来事に翻弄されるずっと前から、ひとりひとりの中で積み重なった時間に強いられるように右往左往する人たち。その様子はやっぱり時に不可解だったけれど、「気持ち」や「感情」というのは言葉であり音なので、その人の中に渦巻く何かとは、そもそも似ても似つかない。言葉にならない気持ちというのがあるのではなくて、気持ちはそもそも言葉に出来ない。そもそも不可解なものだ。映画はそれを黙って追いかける。そして凪さんが動く。私がすべてに気付いたのは、その後だ。◼️最後の最後。ビジュアルにもなっている凪さんの背中。不可解だったシーンとセリフに筋道がついて、「ああ、そういうことだったのか」と、途方に暮れた。あの、腑に落ちる感じ。誰かの気持ちにふと気付いて、足が止まる。思わず後ろを振り返って、その人のことを思い出す。そんな気分で「間に合った」と思い、一分に満たない映画の残りを見つめながら、ひとりの人間みたいなこの映画は小園さんが演じた凪さんそのもので、紛れもなく『凪の海』という映画なんだと腑に落ちた。◼️久しぶりに映画とやりとりが成立した。もしかしたら勘違いかも知れないけど、コロナ騒ぎと自分の映画の宣伝で、まともにスクリーンに向き合うことができなかった半年が、『凪の海』でやっと動き出した。


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