『いつか、どこかで』の感想。

誰かが運転する車に乗っていて、知らない町を通りがかった時、窓の外に見えたおじさんの険しい表情とか、いま自転車を降りかけたおばさんの変な姿勢とか、何十年もそこに建っている古びた家や、店の明かりを見ていると、こうして車で通り過ぎるだけで、この先、たぶん再び訪れることはないこの土地で、産まれて、暮らして、死んでゆく人たちがいるんだなあ、という気分になることが、たまにある。その気分は、映画のネタとか、映画を作りたいと思う気持ちと、どこかで繋がっているような気がするのだけれど、不思議と映画を観ている時に湧き上がった記憶がない。

『いつか、どこかで』の主人公のアデラは、脚本なしで、現場で思いつくままに撮影されたというこの映画の中を、ひたすらウロウロする。この映画は、監督のリムくんが、まずその土地に行って、現地で映画の展開を思いつきながら、現地で出逢った人にその場で出演を交渉しながら、行き当たりばったりで撮影された映画だから、なんでこの町を歩いているのか、アデラを演じる女優さんも、見ている私もよくわからない。や、映画の筋はわかる。わからないのは、映画が辿り着こうとしている場所だ。脚本に基づいて周到に準備された映画は、どんなに知らんぷりしたって、作り手にとっての、映画にとっての目的地がある。映画はそこ向かって進む。そして、そこに辿り着くために必要ないと判断された時間は、いらない時間として切り捨てられる。『いつか、どこかで』だって、完成までの間に同じような判断はあったはずだけど、それでもこの映画は、その、切り捨てられるはずだった時間で満たされている。アデラは歩く。よくわからないまま。私はそれについて行く。アデラは誰かと知り合って、その人に導かれ、また歩き出す。ひとまずどこかに辿り着く。その場所は、アデラも、私も、たぶん監督のリムくんも知らない町だ。そこには、かわいい女の子がいる。野良犬が2匹いる。大きな体のラッパーがいて、面白い造りの建物がある。作り手の意図の外にある、でも、この映画が撮られなければ、決して写されることのなかった見知らぬ町の時間で、この映画は満たされていて、そこには、その土地で産まれ、暮らして、死んでゆく人たちの時間がある。アデラと一緒にウロウロしながら、私はその時間を見つめる。あの人に家族はいるのか。好きな人はいるのか。どんな建物に住み、家の中はどんな風なのか。散らかっているのか、片付けられているのか、それで片付けていることになるのか。疲れ切った時、ひとりで食べるご飯はどんな味か。どんな乗り物にのって仕事に行くのか。私は、映画を観ながらそういうことを考えるのが、いちばん楽しい。

名前だけしか知らなかった紛争や、それまで知らなかった世界的な出来事の中に自分を置いてみることをしなくとも、この映画に映った人たちを見れば見るほど、その人たちの時間への想像が膨らむ。膨らませているのは、切り捨てられるはずだった時間で、その時間は、周到な準備がなかったから活かされた。映画に脚本は無くていいのかもしれない。知らない土地にまず行って、それから何を撮るか考える。リムくんの映画作りは、気持ちひとつで誰でも出来るのに、やっている人を、私はほとんど知らない。

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