見出し画像

いつ、どこで咲いてもいい


樹木に誘引したパレード
暴れてる枝たち
@個性

誘引する構造物(パーゴラやアーチ等)が無かったので取り敢えず樹木に誘引したバラ、パレード。

強健種なのであっという間に樹木頂上付近まで登りきった。

無消毒でも病気知らず。チラホラと黒星病の葉っぱがあったけれど、病気が広がらない様に感染した葉をちぎっておいたら、また見事に復活。本当に優秀。(バラに農薬系薬剤は使用しませんが、木酢液、ニームオイル、メネデール等を週2回程度、散布してます。)

しかし、棘は鋭く株は太く硬く、誘引時には流血しまくり。

陽当りの良い壁面やパーゴラ、大型のアーチに誘引すれば、その場所を花で埋め尽くすポテンシャルを持ったバラ。

既に庭のフェンスや壁面の誘引スペースには他のバラが陣取っていたので樹木の下へ鉢を設置。「この子ならやれる…。」そう信じて。

木陰の影響もあり花は少なめだけれども、頂上を超え延びた枝を向い側の空いたフェンスまで持って行けば、アーチを使わずにバラアーチ完成。

我が家では台風の事も考え2年前にアーチを撤去し、元からある住宅構造物を利用した空間誘引に切り替えました。
この方法なら台風等の影響で、バラごとアーチが倒れ込む懸念は消えますから。

空間誘引の第二号が、このパレードです。一号は木香薔薇。

前年剪定してなかったので
伸びすぎた枝が垂れダルダルに…
暖簾か…
左側の窓辺から
右にあるフェンス方向へ誘引
この奥にキッチンの出窓
アーチ状に収まらなかった枝は
自然に垂れさせて
花の滝
木香姫の真下から

木香薔薇の下は心地良い風が通り抜けています。

仕事柄、バラを育成中のお客様とお話しする事が多々ありつくづく、気づかされたのです。

バラを溢れる様に、零れる様に一年中咲かせたい。

と、思っている方の多い事に。

以前のnoteにも書きましたが、庭の中ではバラを中心に考えておらず、むしろ今の気候で一年中咲く様に設計されたバラは過酷だなぁと。

なので自宅では一季咲きか、秋に返り咲くオールドローズを好んで育成中です。

今後職場では秋の開花を目指し、夏剪定を順次作業しなければなりません。

「いーのよ別に夏剪定なぞしなくても…」

(本音)

さて、職場にて、あんなこんなの諸事情を体験する中で先週は勤務中、遂に熱中症にかかってしまいました。

寝込みながら、うなされながら

「いつ

どこで咲いてもいい」


これが頭の中を、ぐるぐる

そう、これは私自身への言葉であり想いだったのです。

フラワーショップへの就職は私にとって、夢の様な出来事でした。不器用ながらも花束やアレンジメントを習得し、苗を管理し一番の喜びは、自分の好みでは決して買わないであろうバラの数々と触れ合えた事でした。

私は近々、この職場を去るだろうなぁ…

そんな事を想いながら静養していたのです。


30年ほど前の事でした。

とある神社の境内にネイティブアメリカンと思しき男性がおり、その方はズニ族の長老でした。

その日私はホワイトバッファローのペンダントを身に着けていて、「それはズニ族のものだ。良い事だ」と話しかけられたのでした。確かにその通りで、それはズニ族のアンティークペンダントなのでした。(フェティッシュと言うもの)

その後長老から、「あなたを守護している動物をあなたの手で見つけ出しなさい。」

と言われるのですね。

長老の持っていた革製ポーチから3つ選び、取り出すようにと言われました。

何だか分からんが成り行き上、革製ポーチに手を入れて、適当に3つ選んだ3体が私の守護動物なのでした。

1つ目は誕生から青年期まで。

2つ目は青年期から成人まで。

3つ目は成人から壮年期まで。

そこからは3体の動物が全て揃い、人生の最期まであなたと旅を共にするのだと言われました。その動物たちの事は他言無用と言われましたのであれ以来、心の中に仕舞ってあります。

私は今年6月に63歳となりました。

長老と出会った頃は、ニューエイジ系スピリチュアルの全盛期で、私はそれらが好きではなく、ハマって行く友人とは疎遠となった時期でもありました。


けれども理由は分からないけれど、この守護動物という事にはあまり抵抗がなく、

当時は長老言うところの青年期に当たっていたのですが、その期間の守護動物について、ちょうど色々と想いを巡らせていて、伝承など読み耽っていた事もあり「偶然とはいえこれはもしかして?」と言った心の動きがあったのも確かです。

現在既に壮年期に入り、3体の動物が揃ったわけです。その3体は、陸海空の、それぞれを生きる場所としている動物たちです。

そして、これまで頑なに拒んできた事は、偏りです。物事の解釈を、何にせよ見えない力に例える事を良しとしませんでした。

見える世界の美しい風景を通り越し、神秘ばかりを語るのは、今でも好みではありません。

けれども最近思うのです。

心は何処にも定住していなかったと。

自由であり束縛もなく

誰をも拘束していない


ならば私は何処に咲いてもその種は、風に委ねれば良いと

目の前の風景と心は常に一体で、誰に何と言われようと

目的地に向かって風は吹く


風を掴み進め

裏の世界と表の世界を縦横無尽に駆け抜ける

風の通った跡に

道は残る



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?