「質問しなさい」が嫌いな理由
学校の強制参加のイベントでは、ファシリテータの方が「質問しなさい」ってあたかも”質問すること自体が目的”になるように我々に投げかけてくることがあると思います。ありますよね?あれ、マジで嫌いです。
そして大体そういう人ってはっぱをかけるようにこんなこと言ってきませんか?
「アメリカの学生はみんな手を挙げて質問する」
だからなんやねん。
いや、気持ちは分かります。ファシリテータの方は当然、講演してくださる方に気持ちよく帰ってもらいたい。だから聞いてる側から「あなたの話興味深かったよ」っていうのの意思表示として質問してほしい。
そんなことは承知のうえで、この現象が嫌いな理由を言語化してみます。
・質問を目的に質問するメリットがない
これは明確なことで、質問って質問したいからするわけで、僕はファシリテータが質問してほしいと思ってるから質問しようという気にはなりません。
・本当に質問したい僕の時間がなくなる
そうはいっても、ファシリテータのメンツを考えて、責任感に駆られて質問する人がたまにいます。すごいいい人だと思うのですが、そんな半強制的な質問をしても実りはなく、ただ時間が過ぎていきます。極端な例を出すと、僕が通っていた高校では一年に一回、卒業生が呼ばれ、在校生に高校生活についてアドバイスするイベントがあるのですが、ファシリテータはイベント前に、各クラスの委員長に「質問を考えておけ」と連絡し、形だけの質問タイムの際各クラスの委員長が事前に考えておいた質問をしていました。
僕はそれを知っていたので、とても質問しにくく感じていました。
少し話がそれるのですが、僕は高校3年生になって以来、人の話を聞くときは必ず質問をしようという気持ちで聞くようにしています。
「お前も質問を目的にしてるじゃん」と、思うかもしれないのですが、僕が目的としているのは、それに伴って享受できるメリットです。
具体的には3点あります。前提は誰の話からも、学ぶことは少なからずあるということです。
1:話の理解がしやすい。
どんな質問をしようと考えながら話を聞くので、頭の中で常に具体化しながら考えなくてはなりません。もし具体化できなかったら、そこを詳しく聞いてみてもいいですね。
2:その場でアウトプットできる
理解したものを踏まえ、言語化しないと質問できないので、質問しているときすでに僕の中では、聞いた話を整理して、言語化できている状態になっています。
3:より良い話を引き出せる
意欲的な姿勢を見せることによって、話し手のモチベーションも上がるものだという立場に立っています。より学びたいなら、話し手をモチベートする必要があると思います。それによって、より良い話が聞けることは往々にしてあるのではないでしょうか?
これらのメリットによって、なんとなく話を聞くよりも2倍以上学びがあると思って日々生活しています。
ちなみにこれに気づいたのは、高3の受験期。志望校合格に対して遅れを取っていた僕は、誰よりも効率的に多くを学ぶ必要があると考え、恥じらいを捨てて質問を実践してみました。すると明らかに今までより多くを学んだ実感があったという事です。
さて、本題に戻ると、「質問しなさい」と呼びかけることで、質問することによって得られるメリットに気づくどころか、より見えなくなるんじゃないかなと思います。
・質問=させられるもの→めんどくさいもの、になる
僕が挙げたメリットはあくまで能動的に質問しようという姿勢がもたらすもので、強制的にさせられたものでは、適当に話を聞いて覚えているフレーズを取ってつけたような質問しかできず、学びにはつながりません。話し手も浅い質問ではモチベートされないことでしょう。
それ以上に、質問する=させられるもの→めんどくさいもの、としてインプットされてしまうデメリットがあるのではないでしょうか?
だから嫌いです。
ていうか、こういう場所でファシリテータをする学校の先生って質問するメリットを実感したことあるのでしょうか、、?
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