中毒性が半端じゃない 西尾維新の面白さ

西尾維新さんについて、オタクと呼べるほど西尾維新さん(以下敬称略)の小説を読み込んでいるわけではない僕が、今更語ることなどないのかもしれないが、それでも西尾維新さんについて語りたくなってしまったのだから、語らざるを得ないだろう。

そもそも西尾維新とは誰なのか?Wikipediaによると​

2002年に『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』で、第23回メフィスト賞を受賞しデビュー。同作の主人公を語り手とする「戯言シリーズ」は『このライトノベルがすごい!2006』において1位にランクインした。
2005年から2006年にかけて発表された『化物語』は「〈物語〉シリーズ」としてシリーズ化され、アニメ化・ゲーム化など様々なメディアミックスが行われている。
『コミックファウスト』2006年8月号に掲載の『放課後、七時間目。』以降漫画原作も手がけており、2009年より、『週刊少年ジャンプ』掲載の『めだかボックス』で漫画原作者として連載デビューした。

と、ある。一般的なオタクである僕が、「西尾維新」と聞いて思い浮かぶ作品は、物語シリーズや、戯言シリーズだ。まあ、もっともヒットしている、有名作であるというだけで、どの作品においても西尾維新の色が消えることはない。

西尾維新の作品の特徴は2つ。言葉遣いと独特すぎるキャラクターだ。だが、この2つについて僕ごときが語り尽くせる自信はなく(そもそも語り尽くされているだろう)、僕が魅力を感じているのはそこではないので、ここから先はなぜ僕が好きなのかを語っていこうと思う。

一貫性があるようで、ないような話運び

「およそ論理立てて物事を考えるほど無意味なことはない。所詮論理など人の考えたものであり、そして世界は人の手には余りすぎる。」byぼく

この文面は戯言シリーズ名言集というサイトから引っ張ってきたものであり、事実確認はしていないので、本当にこの言葉を戯言シリーズの主人公であり主人公格である、いーちゃんが言ったかどうかは定かではないが、この戯言、名言は僕が感じた魅力を端的に表現しているいい言葉だと思う。

西尾維新の作品には、他の小説にあるような「成長」や「エンディング」に向かっているような感覚がない。いつでもクライマックスであり、最前線なのだ。何がいいたいかというと、登場人物達の発言には脈略がなく、悲壮感もなく、ただただ茶化し続けているような感覚がする。

脈絡がないというのは語弊があるかもしれない。実際には登場人物達の話は全てつながっていて、突発的な発言も、全てキャラクター達の思考や会話に対するツッコミという形で現れている。このツッコミがただのツッコミである場合もあれば、物語の伏線になっている場合もあり、物語のオチというものが全く予想できない。

会話がポンポンと飛び跳ねるような感覚が本当に癖になる。

それぞれが主人公を貼れる、独特すぎるキャラクターたち

戯言シリーズのいーちゃんを、主人公であり、主人公格であると表現したが、その理由はタイトルの通りだ。もっとも影が薄く、意志がなさそうに見えるのが主人公なのだ。まあ意志がないわけではなく、何かしらの狂気的とまで言えるこだわりをもっている。

思うに、主人公の思考は以下のようになっている。

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
本当にそうだろうか?

常に様々な可能性を探索し、固有の強い意見を持たない。というより他のキャラクターの発言や思想に対して、ああでもない、こうでもないと考えている。

一方他のキャラクターの発言は断定的であり、完成されており、成熟している。そんなものはないと断言し、それでは上手く行かないと否定する。迷う、ということがないのだ。キャラクター達が固有の目的を持っている。

それ故に魅力的であり、どのキャラからも目が話せないのだ。

ここでは代表例として、戯言シリーズの哀川潤を紹介しよう

戯言シリーズ 哀川潤

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数々の武勇伝を持ち、目下敵なしの最強の人(なお発展途上中なのでまだ成長の余地がある)。
職業は請負人。トレードマークは、髪に付いている稲妻模様。

《人類最強》、《人類最強の請負人》、《赤き征裁》、《死色の真紅》、《疾風怒濤》、《砂漠の鷹》等と数多くの異名を持つ。
「炎上するビルの40階から飛び降りても無傷だった」「ソウドオフ・ショットガンの零距離射撃を腹筋に食らっても生き残った」「千人の仙人相手に勝った」「哀川潤の踏み込んだ建物は例外なく崩壊する」などの数々の武勇伝・伝説を持つ

まあ彼女自信がすでにスピンオフ作品の主人公を張っているので、「全てのキャラクターが主役である」という僕の意見の、参考にはならないかもしれない。それでも「僕の考えた最強のキャラクター」のような、ある種陳腐なキャラクターに、愛される個性を付与するというのは生半可なことではない。

物語シリーズ 忍野メメ

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怪異を調べて日本全国を放浪する謎のおっさん。サイケデリックなアロハシャツを着ている。忍曰く「アロハ小僧」。
自称、妖怪変化のオーソリティ。
ただし、「退治屋」ではなく、「バランサー」あるいは「交渉人」を自認している。
学習塾跡の廃ビルに無断で寝泊りしている。咥えている煙草には火をつけない。
怪異と渡り合うプロフェッショナルで、暦にその対処法を教授する。
本人はあくまで、人と怪異との中立の立場に自らを位置付けており、「助けるわけではなく、一人で勝手に助かるだけ」を信条にしている。

物語シリーズにおける、主人公、阿良々木暦のメンターにして、怪異の専門家、忍野メメ。ひねくれた性格、アロハシャツ、常に中立を謳い、誰に幸せをもたらすわけでもない。こんな個性的で、誰の立場でもないこのキャラを愛さない人間がいるだろうか。

ともかく癖になる、図書館で探してみてほしい

長々と語ってみたが、ともかく西尾維新の綴る物語は、他のどの作品にもない魅力がある。僕たちに語られるために作られた小説ではなく、キャラクターたちの物語を垣間見ているような感覚に陥る。ぜひ一度読んでみてもらいたい。

後記:才能について

西尾維新リスペクトで勢いで書き連ねてみた。調べたところによると、西尾維新さんは小説一冊を2~3日でかきあげたこともあるという。尋常ではない速さだと思う笑。

そもそもこんな記事を書こうと思ったのは、彼の最新作「ヴェールドマン仮説」のあとがきにて、

結局『私』は『登場人物一覧表』のしかも結構後ろの方に記載される、普段何をしているのかわからない人間にしかなれないのだと理解せざるを得ませんーー

という言葉に衝撃を受けたからです。この『私』というのが、前後の文脈にでてきていた、たとえ話のキャラクターを指すのか、それとも西尾維新さん自身を指す言葉なのかは定かではありませんが、僕は後者だと思っています。

西尾維新さんの作品にはよく、才能だとか、天才だとか、そういった言葉が散見されます。漫画家を目指すことを諦め、小説家に転向した経験も反映されているのかもしれません。

僕からすれば、西尾維新さんこそが天才です(こう表現することは嫌ですが)。そんな人にも悩みがあるのだと、当然のことでありますが、なんとなく今の僕に響く言葉でした。

ともかく、僕もなにか始めてみようかと思います。まあ、この記事や西尾維新さんにはなんの関係もない、私事ではありますがね。では。

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