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ブックレビュー『現代語訳 学問のすすめ』福澤諭吉著 齋藤孝訳

(※令和2年7月のブログ記事の再録)

福澤諭吉の著書である『学問のすゝめ』を現代語訳で読み直した。
以前原文を読んだときには、心にぐさりと刺さる箇所も多かったが、
文語体ゆえに意味が取りづらく、理解が及んでいないところもあった。
今回改めて読んでみて、やはり非常に重要な必読書であると再認識した。
以下、同書からの引用を交えながら、
自分なりに感じたことを述べていくこととする。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。
(中略)
しかし、この人間の世界を見渡してみると、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人も、金持ちもいる。また、社会的地位の高い人も、低い人もいる。こうした雲泥の差と呼ぶべき違いは、どうしてできるのだろうか。
その理由は非常にはっきりしている。『実語教』という本の中に、「人は学ばなければ、智はない。智のないものは愚かな人である」と書かれている。つまり、賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによってできるものなのだ。

「天は人の上に~」という冒頭の一文はあまりにも有名であり、
知らない日本人はいないのではないかと思われるほどだ。
しかし、本書を読んでいない方の多くが、
「人はみな平等である」という理解にとどまっているのではないだろうか。
福澤諭吉は、人間の権理(同書では「権利」ではなく「権理」と記述)は平等であるとしながら、
それでも人によって大きな差が生じているのは、ひとえに学問の有無によると主張している。
だからこそ、誰もが学問を修めて知恵と能力を高め、
一人ひとりが経済的にも精神的にも独立して豊かな人生を築き、
西欧に負けない独立国家をつくっていこうと訴えかけているのだ。
そういう意味で、『学問のすゝめ』というタイトルがつけられたのだろう。
少なくとも私はそのように理解した。

仮に政府に対して不平があったら、それを抑えて政府をうらむより、それに対する抗議の手段をきちんととって遠慮なく議論をするのが筋である。天の道理や人の当たり前の情にきちんと合っていることだったら、自分の一命をかけて争うのが当然だ。これが国民のなすべき義務というものである。

「首相官邸ホームページ」に、政府に対して意見や感想を送信できるページがある。
もちろん人間のやることだから、誰が政治を行ってもすべて完璧にできるわけではない。
だからこそいち国民として、政府に強く訴えたいことがあるときには、
直接意見を送るのもひとつの方法ではないかと思う。
当然、すべての意見をサイトの管理者が拾い上げて、逐一政治に反映されるわけではない。
どれだけ意味があるのかさえもよくわからないが、どこかで無駄に愚痴をこぼしているよりは、
たとえ0.1パーセントでも政治家の耳に届く可能性があるのではないだろうか。
また、私はこれまで数回意見を送ったことがあるが、
相手にきちんと読んでいただくためには、
しっかりと礼儀をわきまえた文章を書かなければいけないと思った。
そのためには、「論理的な説明の仕方」や「手紙文の書き方」といった「学問」が必要だ。
いくら政府に腹が立っても、もし私が礼儀知らずで失礼な書き方をしたら、
その時点で相手が取り合ってくれる可能性はゼロになるだろう。

いまより数十年後、後の文明の世では、いまわれわれが古人を尊敬するように、そのときの人たちがわれわれの恩恵を感謝するようになっていなくてはならない。
要するに、われわれの仕事というのは、今日この世の中にいて、われわれの生きた証を残して、これを長く後世の子孫に伝えることにある。これは重大な任務である。

この部分を読んだとき、私は心から感動した。
私自身、かねてより同様の思いを抱いていたからだ。
私たちが豊かで文明的で自由な生活を送ることができるのは、
世の中のあらゆるものを発明し、
何百年何千年かけて進歩させてきた先達のおかげだ。
そして激動の時代において、
日本国の自由と独立を護ってきた先人たちのおかげでもある。
あまたの人たちの命がけの努力による恩恵のうえに、
私たちの現在の幸福な生活があるのだ。
もちろん、もうこの世にいない古人に直接恩を返すことはできない。
であるならば、われわれがなすべきことは、
われわれの子孫である百年後二百年後の人々のために、
この素晴らしい日本という国を護りながら、
世界の平和と幸福と進歩に貢献していくことであるはずだ。
「ではお前に何ができるのか?」と問われれば、
微力な自分を恥じ入るしかない。
しかしながら、微力を尽くし続けることが、
自分の責務であるように思えてならない。

人間の付き合いの中で、面識のない相手のやったことを見る場合、もしくは、その人の言ったことを遠くから伝え聞いて、それがわずかでも自分の考えと合わない場合などには、互いをいたわりあう気持ちが生まれず、かえって相手を嫌いになって過剰に憎むということも多い。これもまた、人間の本性と習慣によるものだ。
物事の相談では、伝言や手紙ではうまくいかなかったことでも、実際に会って話してみるとまるく治まることがある。

ここを読んだ瞬間、私はすぐさま「現代のネット社会」を思い浮かべた。
実は明治初期の人たちも、今のわれわれと同じような問題を抱えて生きていたことがわかった。
違うのは、インターネットの普及による「情報の多さ」と「スピードの速さ」と「関わる人の多さ」であろう。
SNSはとても楽しいものだが、
同時にイライラさせられることも少なくない。
しかし、昔から人間とはそういうものだったのだと思えば、
少し気が楽になり、いくぶん冷静になれるのではないだろうか。

世間で事を企てている人の言葉を聞くに、「一生のうちに」だとか、あるいは「十年以内にはこれを成す」という者は最も多い。「三年のうちに」「一年のうちに」という者はやや少なくなり、「一月のうちに」「今日計画して、いままさにやる」という者は、ほとんどいない。「十年前に計画していたことは、もうすでにやり終わったよ」というような者に至っては、いまだお目にかかったことがない。
(中略)
その計画の経過をはっきりと言えないということは、結局、事を企てるに当たって、時間のかかり方を計算に入れないことから生じているのである。

これもまた、私の胸にぐさりと響いた部分だ。
約五年前に『ホンカク読本』という初めての著書を出したあと、
これをできるだけたくさん売っていきながら、
さらに勉強して二冊目三冊目の著書を出したいと願って過ごしてきた。
いくつか次回作の構想は持っているが、まだまだ勉強が不十分で、
「これも学ばなければ」「これも読まなければ」と思っているうちに、
あっというまに一年が過ぎ去ってしまう。
もちろん少しずつ積み重ねている部分はあると思うが、
このままでは目標達成までどれくらいかかるのか見当がつかない。
もっと「時間のかかり方」を計算して、
計画を進めていかなければならないことがよくわかった。

さて、『学問のすゝめ』には、これら以外にもぜひ紹介したい内容がたくさんある。
しかしその量が多すぎて、ブログではとても紹介しきれないのが残念だ。
機会があれば、多くの方々に手に取っていただきたい名著中の名著だと思う。
原文はやや難しいので、全体をよく理解するためには、
このちくま新書の現代語訳をお勧めしたい。

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